当時のミャンマーは権力が一極に集中した統制経済でモノもカネもなく、アジア最貧国になりつつあったが、不満は力で抑えつけられた。「社会主義」とは名ばかりの独裁だった。アウンミャッウインは名門ダゴン高校で学生連盟のメンバーとして熱心に民主化活動を続け、ヤンゴン大学に進んだ。1995年にNLDのリーダー、アウンサンスーチーが自宅軟禁から解放されたのを契機に、スーチーが演説するビデオテープをダビングして秘密裏に配っていた。ところがこれがバレて憲兵に逮捕された。
取り調べは過酷を極めた。長い拷問の末に親の請願で何とか釈放されたが、監視も圧力も厳しく、このままこの国にいても将来はないと考えた。ブローカーに20万チャットを払って国外に出た(日本円にすれば約10万円だが、当時の公務員の平均給料は1000チャットだったという)。それが1997年10月のことだった。ミャンマーの政治亡命者の多くが選択する職業である船員となり、航海を続けながら、民主化を待った。
送還の危機を逃れるため日本に上陸
しばらくしてドイツ船籍の貨物船に乗っていたときのこと、アメリカのタコマを出たところで仲の良かった船の情報担当職員から、「お前はスリランカに着いたら、現地の公安に引き渡されることになっている」とこっそり告げられた。身元がバレていたのだ。戦慄した。送還されたら、また逮捕が待っている。それまでに逃げなくてはならない。スリランカまでの船の寄港地を調べると、1カ所だけあった。それが日本の広島だった。
アウンミャッウインは、船が瀬戸内の港に接岸すると同時に入国審査官が乗り込むのを待たずにゲートを突破した。イミグレ(入国管理局)の職員が追って来たが、自転車を拾ってしゃにむに逃げた。何とかまいたものの、同じ場所にいるのは危険である。ヒッチハイクをしようとしたが、車は止まってくれず、タクシーを拾った。もとより日本語は何もできず、手持ちのカネはドル紙幣しかなかった。
「日本の首都であるトーキョーに行こうとして唯一知っている列車、シンカンセン、シンカンセンとドライバーに伝えましたんや。駅に着いたんやけど、円を持っていなかったので運転手さんにものすごく叱られた。何やいろんなものを売っている店、今思うとリサイクルショップに連れて行かれてそこで両替したのを覚えています」
1998年3月のことだった。
東京では、当初ホームレスをしていた。新宿に出て柏木公園やアルタ前で寝ているうちにとび職や下水工事の人と知り合って仕事をもらった。
「とび職の日当は日本人は1万円でしたけど、当時の僕は在留資格がないから、親方が半分抜いて取って5000円。文句は言えなかった」
この頃のアウンミャッウインは社会的な地位がないゆえに銀行口座が作れず、稼いだカネの全財産をいつも首から下げた南京袋に入れて管理していた。
仕事仲間にミャンマー人がいたので、祖国の政治情報を仕入れることができた。スーチーとNLDを支持する志は潰えることなく、日曜日は新宿から品川まで歩いて行き、ミャンマー大使館の前で民主化要求のデモをした。大使館が警察を呼ぶのでその度に走って逃げた。やがて同胞の知り合いが増えて、彼らが暮らすシェアハウスに住むことになった。生活の基盤が固まると人の繋がりもさらに広がった。窮状を見かねた在日コリアンの知人が、焼肉店の仕事を紹介してくれた。肉の切り方から、タレの作り方まで、最も親切に教えてくれたのが、後にメジャーに行く有名プロ野球選手のお父さんだった。
「刑務所の方がまし」な入管へ……
不安定な日雇いから、食事も確保される飲食の仕事に移り、大使館への抗議活動も続けていたが、2002年の6月に不法入国の容疑でついに逮捕されてしまった。懲役3年、執行猶予5年を言い渡されたが、執行猶予中、十条の入管(東京入国管理局第二庁舎、現在は統合され港区品川に移転)に入れられた。エアコンの壊れた10畳の部屋に20名が押し込められていた。移動時には手錠と腰ひもで縛られて、シャワーは週に2回で、浴びていられるのは5分だけ。途方に暮れていると、同じ部屋にいたスーダン人の難民が、日本弁護士連合会を教えてくれた。そこで手紙を書いた。
「面会に来てくれたのが渡邉彰悟弁護士やった。品川の大使館に抗議行動に行っとったときから、難民救済については有名な先生やと僕も知っていた。渡邉先生は、『あなたは有罪判決を受けたけれど、日本政府に裁判を起こしますか』と聞いてきた。でも僕はそれは断ったんや。僕は自分の都合で勝手に日本に来たんやから。でも難民申請はお願いした。僕はミャンマーに帰ったらまた逮捕されてしまうからね」
渡邉弁護士は手続きに入ってくれた。アウンミャッウインは難民審査参与員にインタビューを受け、ミャンマーを追われた経緯、日本での生活、帰国すればどうなるのかを話した。しかし、申請後、いつまで経っても何の回答もなかった。非認定であっても結果が出れば再申請という手段に移ることが出来るが、それすら出来ずにただ待つだけであった。
その間、必死に独学で日本語を勉強した。5カ月が経過すると、新しく出来た茨城県牛久の東日本入国管理センターに移された。難民申請は認められず、2年間収容されていた。
「忘れられない。牛久の収容施設4ブロックの10号にいました。錆びた赤い水しか出なくて、飲みたくないと言うと懲罰室に入れられました」
入管の収容施設の中でその住処である「4B10」という詩を書いた。ミャンマーは今どうなっているのか、なぜ自分はこんな目に遭わなくてはならないのか。理不尽な境遇に対する言葉がほろほろとこぼれ出た。牛久入管での絶望を表した詩には、2年間の拘束の後、「仮放免」(収容の一時的な解除。就労が禁止され、居住する都道府県からの移動が制限される)の許可が出て出所すると、友人が曲をつけてくれた。さらに知人のビデオカメラマンの手によって映像化された。YouTubeで今でも見ることができる。
(※)
編集部注:第3次英緬戦争の結果、イギリスは1885年11月28日にビルマ(当時)の首都マンダレーを占領。86年1月1日、ビルマを正式にイギリス=インド帝国に併合し、イギリス領ビルマとなった。