「仮放免」からの難民認定だが、喜びはもはや……
アウンミャッウインは、ようやく外に出られることになったが、仮放免はその名の如く、あくまでも仮の「リリース」であり、月に1回入管にその更新に行くことを義務付けされている。非人道的なのは、更新時に、何の前触れもなくそのまままた収容されるという例が多々あることである。そこには法的に何の合理性もない。ただ入管の胸三寸である。「入管よりも刑務所の方が、(法律に基づくゆえに)ましだ」と言われる所以でもある。アウンミャッウインは3回目の更新の前に入管に呼ばれた。
「また逮捕やと思った」
覚悟を決めて出頭した。職員がいつもと違う口調で言った。
「あなたは難民認定されました」
2004年8月15日のことだった。ほぼあきらめかけていた難民申請が認められたのだ。不思議と何の感情も湧いてこなかった。それまで38回のヒアリングを受けていた。朝早くから小さな暑い部屋に呼ばれ、その度に同じことばかり聞かれた。あなたの名前は? 父は? 母は? 何で日本に来たのか? 「この前、聞いたでしょう!」と言いたくなる気持ちをぐっと抑えて向かった。
認定に続けて、職員は言った。
「あなたは日本の法務大臣から、認められました。嬉しいですか?」
静かに返答した。
「そんな気持ちはもうない。2年間も僕は収容された。仮放免されても仕事をしたら、逮捕される。こんな扱いをされたことに疑問を感じますね」
難民として生きる中、大学を志す
アウンミャッウインは2年ぶりに焼肉店に連絡を取り、再び働き始めた。店員の人たちは皆、また温かく迎えてくれた。料理主任には特にお世話になった。料理の腕もぐんぐん上がった。やがて生活にゆとりが出てくると店のスタッフに言った。
「俺、大学に行くからここを辞める」
このときの心境をこう語る。
「僕が日本に来たのは肉を切るためやなかったことを思い出した。僕はミャンマーで時間が止まっていて大学生のままやった。だからもう一度学び直したかった。焼肉屋は辞めることになるけど、店のみんなは、応援する!がんばれ!と言うてくれた。めっちゃ嬉しかった。何を学ぶか考えた。ヤンゴン大学では文学部の学生だった。でも難民になって人生経験を経て、法律の大切さが身に染みた」
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)による難民高等教育プログラムを利用して関西学院大学の法学部に入学した(彼の関西弁はここから始まる)。学部を卒業後は大阪市立大学の大学院に進み修士論文(“The Survival Strategy of a Burmese Asylum-seeker”「ビルマ難民申請者の『生き延びる』ための戦略」)を仕上げた。その評価は高く、ドイツのボーフムの大学に招かれて非常勤講師などを担った。一方でビジネスにも手を広げ、自ら介護職の資格を取り、介護ビジネスのオフィスを立ち上げた。さらには料理の腕を活かしてミャンマー料理のレストランを開くに至った。
人権を学べば、差別はなくなる
今、アウンミャッウインは、あまりにも多いミャンマー出身者によるロヒンギャへのヘイト発言に怒っている。
「ミャンマー版の『ネトウヨ』でもある彼らは僕と議論になると絶対に負ける。それは僕が正論を言うからや」
スーチーを支持して民主化運動に邁進した「88運動」の人たちでさえ、ロヒンギャというワードが出た途端、すごく差別的になる。これはなぜなのか。極めて本質的なことをアウンミャッウインは分析した。
「もともと、あの民主化運動は人権意識で活動していたんやない。今、思えば僕たちは民主主義というよりも自由を求めていただけやった。単に独裁者、独裁政権を倒したかっただけ。88運動世代の人にしても軍事政権のもとで生まれて育ってきた人たち、やから、彼らは人権教育を受けたことがないんや。受けていた教育は、国を愛するとか、仏教はすごいぞ、という程度のレベルでしかなかった。
ロヒンギャ問題について、一番今のミャンマーに必要なのは、人権教育の支援やよ。それも小学校からの。それこそが本当のロヒンギャ支援ですよ。僕たちは軍事政権の下で生まれ、そこで大きくなり、人権と言う言葉さえ知らんかった。僕たちが学んでいたのはミャンマー型の社会主義だけや。いわば洗脳ですやん。政治学を学ぶことができなかったことを僕たちミャンマー人は素直に認めないとあかん。
僕がロヒンギャの存在を知ったのは9歳のときやったけれど、そのときはお父さんもお母さんも『あいつらは不法入国者でテロリストたちだ』と言っていた。でもあとから、それは偏見だったと気づいた。そもそも万が一、不法滞在者やったとしても迫害や弾圧をしてはいけない。不法移民はどこの国でもある。それでも人権として宗教の自由、移動の自由、結婚の自由、結社の自由を担保するべきや」
88世代の民主化運動が単に強権政治に対する打倒行為でしかなかったというのならば、今、自身が纏っているこれら人権への意識はどこで学んだのか。
「僕が日本に来て、そこで通った大学で、です。関西学院大で、人権教育を学びました。法学部政治学科の国際関係コースの中の国際人権を専攻して移民と難民について研究したのです。大阪市立大では都市政策共生社会分野。それで僕は、『これは差別』『これは悪い』という判断がようやくできるようになったんや」
最後にぽつりと大事なことを口にした。
「まあ学問というよりも基本的な人権のことさえ、ミャンマーの国民はわかったらいいんです。それはめちゃくちゃ簡単なこと。自分たちがされて嫌なことは、人にはしないということや。僕たちはまだ浅くて若いけれど、地球とともに人類も時間を重ねていけば、民族とか言葉の壁を全部乗り越えていくと思うのです」
話し終えると厨房に戻った。今日もアウンミャッウインは料理の仕込みに余念がない。難民として生きる術として体得した技。丁寧に出汁を取り、肉を裁く。モヒンガー(魚のスープ麺)の重厚な香りが鼻をくすぐる。ランチを終えた直後だったが、今聞いた話が、さらに食欲を刺激しているのは言うまでもない。
(※)
編集部注:第3次英緬戦争の結果、イギリスは1885年11月28日にビルマ(当時)の首都マンダレーを占領。86年1月1日、ビルマを正式にイギリス=インド帝国に併合し、イギリス領ビルマとなった。