FC町田ゼルビアが2025年天皇杯を制した。1977年に小学生のチームとして立ち上がった町クラブが、伝統ある日本サッカーのカップ戦で頂点に達した。成長を続けるこのチームで、それと歩調を合わせるかのように研鑽(けんさん)を積むゴールキーパー(GK)がいる。「研鑽を積む」――学問などを深く極めること。単なる練習とは一線を画すこの表現を使ったのは、まさにその選手が、いつも冷静に知識と専門性を突き詰めているからである。
Jリーガーを目指すカウンゼンマラ(以下、マラ)に取材したのは2021年。彼が産業能率大学の1年生のときであった。(連載第25回「チョーディンを継ぐ誇り高きラカイン民族の二世。サッカー日本代表を目指すカウンゼンマラの挑戦」)
コロナ禍で練習もままならない中、それでも気持ちを切らさずにストイックにプロサッカー選手になるための努力を続けているその姿勢に、素直な感動を覚えた。
あれから、4年。マラは見事に夢をかなえた。2025年シーズンからのJリーグFC町田ゼルビアへの入団を決めていたのである。
彼はチームの入団会見でこんな言葉を発した。
「町田に関わる方々が熱い思いを持って作り上げてきたこのクラブで、一回り、二回り成長し、町田から日本を盛り上げていきたいと思います。そして多くの海外をルーツに持つ子供たちが憧れを持つ日本を代表するGKになります」

カウンゼンマラさん
マラのルーツはミャンマーにある。父のミャットゥは、ミャンマー代表のバレーボール選手だったが、1991年にノーベル平和賞を受賞したアウンサンスーチーを支持し、戒厳令下で民主化運動を支援していたために弾圧の手が伸びて、同年、日本への政治亡命を余儀なくされていた。
マラは日本で生まれ育ち、幼少期にサッカーと出逢った。たちまちこのスポーツに夢中になったが、難民二世であるがゆえに、サッカー少年なら誰もが夢見る日本代表への道がそのまま開かれているわけではなかった。国の代表になる条件についてはパスポート主義を掲げるFIFA主催の国際大会に日本代表として出場するには、日本国籍を持っている者であることが条件であり、本人の努力だけではどうにもならない生まれながらの属性の問題が横たわっていた。かつてはチームメイトに子どもの無知から来る心無い言葉を浴びせられて傷ついたこともあるが、父の「お前には昔、日本サッカーに多大な影響を与えたチョーディン(*1)と同じラカインの血が流れている」との言葉に奮い立ち、運命を受け入れ、自分の力を信じて前向きに努力を続けてきた。マラの今の法的地位は難民認定者であるが、日本国籍取得のためにプレーと並行して煩雑な申請作業を継続している。
常々マラは「僕は自分の家族が特別だとは思っていませんし、日本生まれの日本人と異なる背景だということで、気の毒な目で見られることも嫌なのです。いつもフラットに見て欲しい」と語っていたが、こと後進のために敢えて言葉にして発信した覚悟が伝わってきた。自分が代表になることで、海外をルーツに持つ同じような境遇にある子どもたちを励ますことに繋がることを彼は知っている。
マラはFC町田ゼルビアに入団するにあたって背番号17を希望した。オマージュは大谷翔平に対してではない。これはアルビレックス新潟で2002年にプレーを始め、朝鮮民主主義人民共和国=北朝鮮からパスポートを発行されて同国代表となり、その後、韓国Kリーグでもプレーをした在日コリアンの安英学(アン・ヨンハ)の現役時代のナンバーである。
安は祖国の南北統一を願う者として、分断された一方の国である韓国の国籍を取得せず、朝鮮籍を保持し続けている。誤解している日本人も多いが、朝鮮籍は北朝鮮の国籍のことではなく、植民地時代に強制的に「日本人」にした朝鮮半島出身者に対し、敗戦後の日本がこれも強制的に割り当てた記号に過ぎない。在日三世の安は敢えて、海外渡航の利便性もあり行政サービスも受けられる韓国籍ではなく、事実上の無国籍を意味する朝鮮籍を背負ってサッカー選手としてプレーしてきた。それもまた、苦労しながら自分たちの言語や文化を守ってきた親の世代への敬意を忘れず、ルーツを大切にする思考からだった。
大学時代、あるシンポジウムで安の存在とその生きざまを知ったマラは、以降、交流を重ね、マイノリティとして同じ境遇の子どもたちのことを考えて振る舞いを意識してきた。幼少期、大好きなサッカーで夢を描き、その実現に向けて努力を続け、Jリーガーになったマラの現在地はどうなのか。回顧とともに語ってもらった。
* * *
――プロに至る道のりは決して順風満帆ではなかったですね。大学3年生のときには、チームのメンバーからも外されていたと聞きました。卒業まであと1年と数カ月しかない中でのベンチ外は嫌でも危機感を煽られたと思うのですが、何があったのでしょう。
「3年生のときですね。スランプではないのですが、調子を崩してしまいました。チームメイト、コーチ、どちらからも求められていることに対して、全部引き受けようとしていたんです。そうすると、自分の良さみたいなものが、だんだん分からなくなって混乱してしまった。昨日と今日で違うプレースタイルになったりして自信が保てなくなったんです。今思えば、プロ入りを前に、自分のプレーについて相手や味方の選手、コーチとかがどう思っているかなとか、過剰に考え込んでしまった。自分の本来の持ち味はコーチングとフィード(パス)、シュートストップだと思うんですけど、あらゆることを聞き入れ過ぎちゃって、うまく前に進めなくなったんです」
――他者の評価を気にして迷いが出ると、従来のパフォーマンスも落ちてしまう。プロを目前に控えたがゆえの相克ですね。そこから再起できたきっかけは、何だったのでしょう。
「きっかけは妹のがんばりですね。妹が僕よりも長い練習時間をこなして、どんなにきつくても朝早くから家を出て行って練習していたのも実際に見ていたんです。彼女も結果が求められる世界で全国大会の連覇に向けて追い込んでいて、それを見て兄として、しっかりしないといけないなと思って」
互いに切磋琢磨し、プロのバレーボール選手を目指していた4歳年下の妹、イェーモンは、大山加奈、木村沙織ら、多くの日本代表を輩出している東京の下北成徳高校で2年時にインターハイを制していた。その後もキャプテンを務め、チームをけん引していた。
(*1)
チョーディン=大正時代、イギリス統治下のビルマ(現・ミャンマー)から来日したラカイン族(ミャンマー西部・ラカイン州の仏教徒のこと)の留学生。東京高等工業学校(現・東京工業大学)に在籍し、日本の学生に本格的なパスサッカーを教えた功績が認められ、2007年に日本サッカー殿堂入りしている。
(*2)
2種登録=Jリーグクラブの第2種チーム(通常18歳以下の選手で構成されるユースチーム)に所属する選手が、同じ所属先のトップチーム(第1種チーム)の公式戦に出場できるようにするための登録制度。