裁判官を拘束するのは憲法と法律のみ
日本プロ野球選手会が行った2004年のストライキを取材していく中で異色の裁判官にぶち当たった。竹内浩史主任裁判官(当時)は、選手会が近鉄とオリックスの球団合併を止めるために出した仮処分申請を東京高裁で棄却した。判決だけ見れば、選手会の敗訴によって、球団減はもはや止められないものかと思われた。しかし、このときに出された決定文が、画期的であった。要は選手会を正式に労働組合として認め、日本野球機構(NPB)側に誠実に向き合うように促したものであった。これで事態が急転換し、球団合併は止められなかったものの、球団数減は避けられた。選手会を実質的な勝利に導いた。詳細はこちらに書いた。
竹内はこう言いきる。
「裁判は良心に基づいて勝たせるべきと感じた方を勝たせるべきです。まず勝たせるべき方を勝たせると決めて、その理由を緻密に法律論として立てることが裁判官としての仕事」
竹内は判決を出す上で過去の判例を出発点にしていない。最初に裁判官が目の前の事案に対して自身の良心に基づいてジャッジをする。そしてその理由を緻密に法律論として立てて判決文を書くことこそが専門家としての力量であるとの考えである。
竹内の思考の根底にあるのは、日本国憲法第76条3項だ。
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
きわめて真っ当な文言であるが、残念ながら、日本のほとんどの裁判官はこの良心を発露させずに判決を下す。なぜか? 裁判官が実際に公正な裁判を行うためには、国会や官邸などから圧力を受けずに済む独立性を担保する必要があるが、日本の司法はそうなっていない。最高裁判所の裁判官や下級審裁判所の裁判官の任命権は内閣にある。また第二次大戦後、米国による占領を受けた日本は、その後も実質的な被支配の状態にあり、日米安保条約や日米地位協定は、事実上、日本の憲法を凌駕する位置にある。
政府権力や米軍基地に関するもの、国策である原発関連の訴訟などは、これらの理由によって公正な判決が下されているとは言い難い。
しかし、竹内は敢然と、自著『「裁判官の良心」とはなにか』(2024年、LABO)の中において自ら憲法及び法律にのみ拘束されていると言い募る。要は裁判官たるもの「タブーと言われる政権や米国にも忖度しない」と宣言しているのだ。その自由な言動は、なにものにも拘束されておらず、実際、下した判決も「名裁き」として法律専門誌での評価も高い。
竹内は司法試験に合格後、弁護士を16年勤めた後に弁護士任官裁判官として22年間にわたって裁判官を勤めあげ、2025年に依願退官した。
今また弁護士として活動を続けている竹内に本来、裁判官はどうあるべきかを聞いた。

竹内浩史弁護士(ⒸYukihiko Kimura)
* * *
――裁判は、法律の常識をあてはめ、それ積み上げて判決を下すのではなく、まず勝たせるべき方を勝たせるというのが、竹内裁判官のポリシーでした。その大本には、裁判官の良心が最初にある。では勝たせるべき方を勝たせるその「良心」は何によって導き出されるのか。著書では、「正直」「誠実」「勤勉」とありました。この3つの価値観に辿りついたのは、どういう経緯だったのでしょうか。
竹内 あれは、実は2004年の球界再編問題を扱ったときにあらためて気がついたんです。裁判官はよく「世間知らず」と言われるけれども、あのとき書いた決定文は高い評価を受けました。世間が真っ当な人を評価するときの基準がまず「正直」「誠実」「勤勉」ではないでしょうか。再編問題における対立軸、「プロ野球選手会」対「NPB」は、人に置き換えると選手会会長の古田敦也対コミッショナーの根來泰周でもありました。比較すると、古田さんは非常に正直者で、これは「誠実」とも絡むんだけれども、自分の損得抜きにして正義を貫こうとしていた。対してNPB側は選手に告知せずに強引にオリックスと近鉄の球団合併を進めていた。古田さんは、合併でも自分の年俸が下がるわけじゃないけど、1球団分の選手がクビになって、球界が縮小するのは許せないという問題意識で動いていた。対して根來サイドは、選手たちの奮闘によってプロ野球人気が出て、儲けさせてもらっているのにもかかわらず、選手へのリスペクトを欠いていた。「勤勉」という点でも古田さんは当時団体交渉を求めて話し合いの場に臨みながら、球場に駆けつけて試合にも正捕手として出続けている。根來側はどうかというと、法律家(元・検事総長)だからこそコミッショナーという地位に任じられているにもかかわらず、何もしようとしない。確か当時の発言、「自分には権限がない」と言っていましたが、コミッショナーに権限がないわけないんです。自分の地位の根拠たる野球協約をおそらく読んだこともないのでしょう。そういう怠慢な人間である。勤勉さでは圧倒的に天と地の差がついた。それで決定文を書きました。

選手会会長として尽力した古田敦也さん(写真は2024年)(写真:西村尚己/アフロスポーツ)
判例に盲従せず、結論から判決を導き出す
竹内 私は何度も言っているのですが、裁判というのは、いい意味で結論先にありきなんです。こちらを勝たすべきだと思ったら、その方向で法律論を組み立てて判決を出す。それが、一番正しい裁判ができるのではないかと思います。
――竹内さんは、裁判官の良心に依らずに、似たような判例を探して差しさわりのない判決を出して処理件数を稼ぐ裁判官を上の顔色ばかりうかがっている「ヒラメ裁判官」と呼んで批判されていますね。
竹内 そう。判例盲従ではいけないんです。ヒラメ裁判官は依拠すべき判例が見つからないと、似た事件を探してきて、無理やりそれにこじつける。それで間違えるんです。そもそも判例から始める順番で物を考えることを再考すべきです。極論ですけど、私はよく、まず法律も憲法もないと仮定して考えましょう、と言います。目の前に出てきた原告と被告がどっちが正しいのか。もしも法律がなかったら、どっちを勝たせますかと自分に問うてみるのです。そこで決めたのなら、それで勝たせる判決理由を書いてみる。十分記録を読んで審理して、書けるなら書けばいい。
――法律がないという仮定から始めると、一歩間違うと善悪の彼岸を超えてしまいそうな気がしますが、それで展開できるのでしょうか。
竹内 まず、合理性のないことは当然ながら判決理由に書けません。典型的なことを言うと、借金を返せない人がいるとします。悲惨な背景だったとします。しかし、いくらその人がかわいそうであっても、借りたものは返せという判決にせざるを得ない。あるいは、借家で家賃が払えなくなって契約解除されて家を追い出された人がいてもそれを救済する法律論はあり得ないので、それは負かさざるを得ない。
ただ、世間でいういわゆる難事件について結論が明らかではない裁判というのは、われわれ裁判官は、書こうと思えば、大抵はどちらでも判決は書けるわけです。だからこそ、勝ち負けを決めるというところが本当はとても大事なのです。それは法律から自動的に出てくるものではないし、最高裁判例を見れば分かるというものでもない。最高裁判例も、私に言わせればけっこう間違っている、つまり、良心(良識)を度外視して、形式論だけで安易に結論を出してしまっていると思えるものがあるんです。
――だからこそ、良心が大事だと。ユニークだと思ったのは、竹内裁判官は主観を大事にするじゃないですか。そしてそれを公言する。逆に言うと逃げ場がないわけですよね。
竹内 そうですね。「この判決はあなたの意見ですね」と言われたら、「そうですよ。そうですけど何か?」ということです。大抵の裁判官はそうではなくて、「これは自分の考えではなくて、法律と判例に従ったら自動的にこうなるんです」と言うんだけど、そんな自動的に出てくるんだったら裁判は要らないんです。そして実際に自動的に判決が出てくる裁判ってそんなにないんですよ。私は22年間裁判官やって、何千件と裁いていますけど、「この事件は簡単だな。法律と判例だけで、何も審理しなくても書けるな」と思った事件は、1件もないです。そんな簡単なものではない。裁判所に来る事件というのは、どっちが勝ってもおかしくない事件なわけで、答弁書が出れば、なるほどと思う事件はけっこうある。だから、やっぱり大事なのは結論で、裁判で一番大事なのは、ただ杓子定規な理屈に合っているかどうかじゃなくて、自分が正しいと思い、社会的にも遊離せずに正しいと認めてもらえるような判断をすることなのです。そのためにどれだけ審理に時間かけるか。事実認定と法律の適用を含めて正しい判決を書けると判断したときに審理を終結すればいいのです。それは事件によっては3カ月のこともあるし、1年のこともある。場合によっては5年、10年ということもあるかもしれませんが、それが大事なのです。裁判は短ければいいというものじゃなくて、裁判官がまじめにどっちを勝たせるかを考えて決断する時間は必要だということです。