サッカー代表チームは国軍の代表ではない
ピエリアンアウンは真意を言う。
「私は3本指を出すことを、(ミャンマーサッカー協会が何も発信せずに唯々諾々と軍政に従ってしまったので)それで決意したのです。テレビに映れば、ミャンマー市民はそれを見てくれる。ミャンマーのサッカー代表チームは国軍の代表になるわけではない。あなたたち市民と共にいます、ということを伝えたかった」
ミャンマーのサッカーは市民を平気で殺す国軍の宣伝ツールになってしまったのか?事実、この「誤解」はあった。千葉で行われた日本戦の前、会場のフクダ電子アリーナ前では在日ミャンマー人たちによる「ミャンマーサッカー代表チームは国民を代表するのをやめろ!」というシュプレヒコールが起こっていた。あるビルマ民族の男性は言った。
「サッカーはもちろん大好きだ。だから応援したいよ。でもクーデターを正当化するプロパガンダに使われる代表チームは見たくない」
そんな空気の中、ピエリアンアウンが3本指を出した。
「命を奪われたすべての人と自分は今、一緒にいるという思いでした」
そしてこのポーズは、大きな希望を国内外のミャンマー市民に与えた。「絶望の淵にいたのに心底励まされた」「危険な状況の中でよくやってくれた!」など、ミャンマー人たちの集うSNS上では称賛の声がとめどなく溢れた。
目的を果たしたピエリアンアウンは当初は帰国する考えであった。しかし、最後の最後、支援者による懸命の説得があった。「命を大事にして欲しい」「帰国すれば確実に逮捕される」……。
関西空港のイミグレーションに向かう中で日本に残る決断を下し、入管職員にその意志を伝えて保護された。現在、日本政府は不安定なミャンマー情勢を鑑みて、在留を希望するミャンマー人に対して、緊急避難措置として在留、就労を認める方針を打ち出しており、万が一、難民認定が下りなくともビザの切り替えが認められれば在留や就労が可能である。
サッカーと政治、亡命の歴史
サッカー選手の政治亡命はヨーロッパでは決して珍しいことではない。
古くはその名がFIFAのアワードの冠にもなったハンガリーのフェレンツ・プスカシュが有名である。1950年代前半に無敗を誇り、世界を席巻したハンガリー代表、通称「マジック・マジャール」のエースは、1956年に起きたハンガリー動乱をきっかけに国外に逃れた。母国の民主化を押し留めようとするソ連軍の戦車が襲い掛かり、この運動が潰されると、ブダペスト・ホンヴェードの一員として出場していたUEFAチャンピオンズ・カップのアスレチック・ビルバオとの試合の後にハンガリーに帰国することを望まず、そのまま開催地のスペインに残ることを決意したのである。1958年からレアル・マドリードでプレーを始め、故国への帰還を本格的に実現するのには、1989年の東欧民主化革命を待たねばならなかった。30余年ぶりの帰郷にプスカシュは「国を捨てた裏切り者」として民衆に投石されるのではないかと不安に思っていたそうであるが、市民感情はその逆で、ブダペストの空港で大歓迎を受けた。ピエリアンアウンもいつの日か、その勇気を讃えられて凱旋帰国できることを切に願う。
Jリーグでは2003年に横浜FCでプレーをした元アルバニア代表のルディ・バタもまた政治難民である。拙著『蹴る群れ』(集英社文庫)に記したが、バタが物心ついた頃、アルバニアは宗教を全否定して鎖国を敷いた独裁者、エンベル・ホッジャの圧政により、ヨーロッパ最貧国となっていた。それはまた想像を絶する監視社会でもあり、政府に不満を漏らすとすぐに密告され、多くの市民が逮捕されていた。
筆者が「ホッジャの時代は……」と質問の中で人名を出した途端、バタは通訳が訳そうとするのに先んじて、まくし立てた。
「あいつは、ヒトラーよりもスターリンよりも酷い独裁者だ。社会を監視の闇に包み込んだ。このパンは不味いとか、この交差点は赤信号が長いとか、そんなことを街中で言うだけで逮捕の対象となった。何の未来も見えなかった」
母国で恐怖を感じ続けていたバタは、1991年3月30日にパリで行われた欧州選手権予選のフランス戦のあと、チームメイト7人でともにホテルを脱出した。生きる術としてのスパイクだけを手にして走り続け、中央警察で難民としての保護を求めて、これを認められている。以降、艱難辛苦の末に、ヨーロッパのクラブでプレーを続けた。フランスのクラブ、ルマンで認められ、やがてはスコットランドのセルティックに移籍し、グラスゴーダービーで25メートルのフリーキックを決めている。ルマンにセルティック、何の因果か、後にそれぞれ松井大輔と中村俊輔が活躍するクラブで結果を出したバタは、現役の晩年にJリーグにやって来たのである。
プスカシュやバタ、あるいはチャウシェスク時代のルーマニアからユーゴスラビアに逃れてレッドスター・ベオグラードでプレーし、東欧のベッケンバウアーと呼称されたベロデディッチなどは、現役で、つまりは一世で難民となった選手だが、これを難民の二世、三世の選手と広げれば、数限りない。スイス代表などは、ジャカやシャチリを含めほとんどコソボ難民やその二世などで、スイス以外をルーツにしていると言っても過言ではない。ベルギー、フランスも同様である。
ヨーロッパでは珍しくないこの種の選手移籍を、日本のサッカークラブはどう見ているか。
日本でサッカーを続ける道
ピエリアンアウンが日本に残る判断を下し、帰国便に乗らなかったという一報を筆者が関西空港から流した直後、一本の電話が入った。町田ゼルビアの唐井直ジェネラルマネージャー(GM)からであった。
「あのミャンマーの代表選手がまだサッカーを日本で続けたいというのなら、応援したいと考えている人物がいますよ」
唐井GMの長女は大学院で人権を専攻しており、ミャンマーの少数民族、カチン民族の女性の難民認定判決に関する評釈を法学誌に寄稿していた。身内にミャンマー研究者がいることもあって、唐井自身も軍事クーデターにビビッドに反応していたのであるが、さらに、この問題を他人事と捉えていないJ3のクラブ経営者を紹介された。それがY.S.C.C.横浜の吉野次郎代表であった。
即座に吉野にアプローチすると、「もちろんサッカー界におけるコンプライアンスはしっかりと確認した上でですが、同じサッカーを行う仲間として、彼が希望するなら、練習に来てもらってもいい。生活やプレーの環境を整える必要もあるし、プレーも見ずにいきなり選手登録というわけにはいかないが、まずは一緒にサッカーをやろうと彼に声をかけてあげたい」と即答された。