命がけで示した3本指のポーズ
6月22日。利き足が左だからなのか、ペンを持つのも左手だった。ピエリアンアウン(27歳)は畳の上に置いた難民認定申請用紙に一生懸命に文字を書き込んでいく。
彼は、6日前の夜、母国への帰国便への搭乗を拒んだ。なぜ拒んだのか、はすでに数多く伝えられている。
5月28日、サッカーW杯アジア2次予選、日本対ミャンマー戦のキックオフ前、世界に発信される国際映像のカメラに向けて、公然と祖国ミャンマーの軍事クーデターに抗議するポーズを取ったのである。それは軍事独裁に不服従を示す3本指のサインであった。
自身もミャンマー出身の難民認定者で、ピエリアンアウンの支援者であるアウンミャッウイン(連載第20回、第22回参照)は言う。
「私はテレビで観ていて、彼のとてつもない勇気に感嘆しました。と同時に大きな危険を感じたのです。あのポーズを取ったことで国軍を激怒させています。今の国軍政権なら空港で逮捕して拘束、そのまま拷問にかけて、知らないうちに彼を殺してしまってもおかしくはない」
3月27日にタイで行われたミス・グランド・インターナショナルのコンテストのスピーチで国軍支配を非難したミス・ミャンマーのハンレイも「ピエリアンアウン選手が命がけで3本指を示したことを尊敬しています」と発言している。ピエリアンアウンは当初は逮捕覚悟で帰国する気であった。まさに命がけなのだ。
一方で、ではなぜそこまでの危険を冒してピエリアンアウンが3本指を出したのか? はほとんど報じられていない。
ミャンマーサッカー協会の裏切り
「大きな決断をしたのはミャンマーサッカー協会が私たち選手を裏切ったからです」
畳の上で姿勢を正して言う。クーデターによって政権を奪取したミャンマー国軍は司法、行政、立法のすべての権力を手中に収め、これに抗議した市民の平和的デモに向けて銃撃を行った。すでに約800人以上の無辜なる人々が軍の凶弾に倒されており、その中にはサッカー選手も含まれている。ピエリアンアウンは、ペンを止めて、遺影としてスマホに入れている2人の写真を見せる。
U-21の代表キャプテンであったチェボーボーニェエン(ハンタワディ・ユナイテッド)とリンレットFCのアンゼンピョである。チェボーボーニェエンはユース世代でリーダーシップがあった素晴らしい若者。アンゼンピョはピエリアンアウンの地元、マンダレーのクラブに所属し、同じGKとしてピエリアンアウンをアイドルのように慕っていた後輩。
「そんな彼らがなぜ、殺されなくてはならなかったのでしょう?」
今、ミャンマー内で対立しているのは、圧倒的な武力と兵力で非人道的なことを平気で行っている側と、それに対して微々たる武器で自衛している人々である。サッカー選手たちも当然ながら、人間とはとても言えない行為をしている側ではなく、人間らしく生きたいと言う側にいたのだ。
「しかし、そんな私たちをミャンマーサッカー協会は裏切ったのです」
3月25日の日本代表戦に向けてヤンゴンで合宿していたミャンマー代表チームは、2月1日に軍事クーデターが起きると一度、解散した。しかし、それによって延期した試合の日程が5月28日に決まると再度招集がかかった。
国外でプレーする選手は、国軍が不当に支配する国の代表としてプレーをしたくないとしてボイコットした。協会は国内の選手に「君たちの意見を聞いて反映する」と言ってきた。
ピエリアンアウンたち選手は、サッカーを国軍政治府から独立させることを望んだ。ミャンマーサッカー協会としてクーデター政権を批判してほしいとまでは言わないが、国際試合に参加するにあたって、「我々は今の政府の行っていることとは関係がない。あくまでもサッカーを代表する団体である」という声明を出してほしいというのが選手たちの要望であった。当然であろう。協会に登録している選手までが国軍によって殺されているのだ。
「私は選手が、と言うよりもそれ以前に、何の罪もない若者が虐殺されていることに大変な憤りを感じていました。ミャンマーサッカー協会には、そんな国軍政府と距離を取ってほしかった。しかし、協会は『ここでW杯予選に出場しなければFIFA(国際サッカー連盟)から制裁を科される』という本質に触れない言い訳のようなものを発信して国家代表招集を正当化したのです。私たちはボイコットする間もなく、それを理由に声明の3日後に開催地の日本に連れて来られたのです。だまされたと思いました」
選手を政治から守るというのは競技団体の大きな使命である。少し似たようなケースで言えば、1978年のアルゼンチンW杯が挙げられよう。この時は2年前の軍事クーデターで政権の座に就き、以降、約3万人の市民を拷問、処刑していたホルヘ・ビデラ大統領が国内に戒厳令を敷いていた。当時のことを元アルゼンチン代表選手で、後に清水エスパルスや東京ヴェルディなどで指揮を執ったオズワルド・アルディレスはこう言った。
「この軍事独裁政権が支配する厳しい時期に、政治家から一切手出しをさせず、我々代表チームと政治との距離を保って試合に集中させてくれたのが、ルイス・メノッティ代表監督でした。彼に受けた恩を私は忘れることができない」
ミャンマーサッカー協会にメノッティはいなかったということか。