「歴史戦」に抗するシンポジウム
日本国総領事館がホームページに載せた「Y.Y文章」に対して、デュッセルドルフ大学の学生が開いたシンポジウムについて聞いた。
「あれは2019年の出来事でした。『Y.Y文章』を見つけた日本学科の学生たちの間でとても話題になっていて、私にもクラスメイトから『これちょっと見て』と送られてきたのです。読んで怒りがこみあげてきました。慰安婦を侮辱し、日本政府の責任を放棄するような態度に、私たち学生たちもこれは正しくないという気持ちを持ちました。しかも水内さんは個人としてではなく、総領事として日本人相手の講演をしていたのです」
マリーはこのときの混乱した自分の感情をこんなふうに表現した。
「私は本当に日本が大好きです。高校時代のステイ先の方とは家族のように今でもつきあっていますし、謙虚さを美徳とする日本の文化も素晴らしい。しかし、このような姿勢は好きではないです。日本を愛すればこそ、この文章へのカウンターを出さなくてはいけないと、動き出しました。それは私だけではありません。日本学科の学生たち8人ほどの中心メンバーでグループを作りました。まずみんなで『Y.Y文章』を読み込んで議論しました。そしてひとりずつテーマを決めて発表しようとなったのです」
学生たちが主催したイベントは「私たちは質すことを恐れない」と題され、2019年の7月11日、12日に分けて開催された。初日は映画『主戦場』(2018年、ミキ・デザキ監督)が上映され、2日目が発表とシンポジウムであった。学生もそれぞれの時間の中でスピーチを行った。
シンポジウムのポスター。2日目の発表者にはマリーさんのほか、右派論客の櫻井よしこ氏を論じる学生も
マリーは自分のスピーチを「歴史の再評価? 情報源の批評的評価」と銘打ち、こんなふうに始めた(原文は英語。以下、翻訳は筆者による)。
「親愛なる聴衆の皆様、私の名前はマリー・ウルリッヒです。Y.Yという匿名の文章『誰もがずっと知りたかった慰安婦のこと(でも、聞くのが怖かった)』の論拠となる情報源を批判的に評価するためにこの場所に参りました。サブタイトルに『歴史的再評価の試み』とあるこのテキストは専門家の著作のように見えます。しかし、学術的な出版物に見えてもその情報ソースによっては、信頼できない場合があります。したがって、この匿名の文章において、どのような情報源が使われたのかを詳しく調べ、そのソースの信頼性と学術的価値を確認することが重要です。情報源の学術的価値は、正しい引用、十分なソース、豊富な議論に基づいています」
そこからマリーは、現在、日本で起きている慰安婦問題に関するいくつかの重要な「歴史修正主義者の議論」について触れておきたいと続け、以下の4点を挙げた。
・慰安婦の証言の信憑性を疑う
・慰安婦制度に対する日本政府の責任を全く、もしくは限定的にしか認めない
・慰安婦を売春婦とみなし、自発的に慰安所で働き、補償を受けていたとする
・特に報酬に重点を置いて慰安婦が性奴隷ではなかったことを強調する
「歴史修正主義者は、主にこの4つのイデオロギー的議論を繰り返しており、非常に偏った言説に貢献しています」
背景を説明した上で、「Y.Y文章」に記されている引用ソースについてアカデミシャンとして分け入っていった。
「『Y.Y文章』には、16 の異なるソースが使用されていて、そのうちのいくつかは歴史修正主義的可能性があります。まず引用の全体で8%を占めているアメリカの退役軍人、アーチー宮本氏の著書について申し上げます。宮本氏は軍を退役した後に日本企業の社長兼会長となり、引退後にアマゾンの電子書籍として『第二次世界大戦の慰安婦に関する軍記録』(邦訳なし)を著すのですが、これは自費出版なのです」
極めて私的な著作でその学術的価値にまず疑問符がつくが、これが3回引用されていることを指摘。2つ目はYouTube動画を挙げた。
「2つ目は書籍や論文ではなく、元日本兵、倉石隆之氏の証言です。それは2014年5月1日に『THE FACT』というYouTubeのチャンネルで公開されたインタビューです。そこでは、兵士と慰安婦の関係は良好で強制連行や無給の慰安婦は存在しなかったという主張を導き出しています。しかしインタビューが批判的なアプローチをしていません」
自費出版、You Tubeからの引用を指摘した一方でマリーは、信頼できる可能性のある学術的出版物もあることを、資料を2つ挙げて指摘している。イザベラ・バードと C・サラ・ソーの著作である。
イギリスの紀行作家バードの『朝鮮とその近隣諸国』は、1898 年に出版されたもので、「Y.Y文章」では19 世紀の韓国が他国と比べてかなり発展が遅れていたことを指摘するために同書から 3 回引用されている。マリーはこう分析した。
「『Y.Yの文章』は、19世紀の韓国を『芸術の無い国』『馬道のような幹線道路』の国としています。これらはバードの著作から正しく引用されています。ただ、バードの旅行記は、優越的な植民地主義的視点の典型でもあります。それは序章で彼女が『韓国人』について述べている部分を詳しく見れば簡単にわかります。学術に携わる者ならば、植民地主義国家の世界観にある19世紀の資料は、バイアスを踏まえて批判的に扱わなければなりません」
もうひとつのソースの著者、サンフランシスコ州立大学名誉教授であるサラ・ソーは1990年代から慰安婦問題を研究してきており、『慰安婦:韓国と日本における性的暴力とポストコロニアルの記憶』を2008年にシカゴ大学出版局から刊行している(邦訳は『慰安婦問題論』、山岡由美訳、みすず書房、2022年)。
「Y.Y文章」では、ここから8回引用されており、全体の引用の20%を占めている。マリーは、出典を精査してこう発言した。
「サラ・ソーの文献からは、朝鮮半島の社会史的背景に関しては正しく引用されています。しかし他の部分では、意図的なのか、少なくとも3回、引用の仕方が間違っていました。まず、1990年代に元『慰安婦』として初めてカミングアウトした金学順(きむ・はくすん)さんの証言の時期的な相違を指摘しています。『Y.Y文章』は、この矛盾点を強調することで慰安婦の証言全体の信用を失墜させようとしていますが、サラ・ソーは相違を確認した上で『このような状況の詳細の相違は、(金学順の)証言の根本的な価値を損なうわけではない』と付記しています。しかし、それは『Y.Y文章』には書かれていない。つまり引用は歴史修正のための物語に都合よく寄せていて、本来のサラ・ソーの主張の文脈から外れているのです。別の箇所でも引用されていますが、それも誤用されています」
サラ・ソー自身も、右派の活動家が自分の本の一部を文脈から外して利用するという問題を予想していた。彼女は上記の本の序文を次のように締めくくっているのである。
「日本や他地域の過激な国家主義者が、自分たちの党派的立場を推進するためにこの本の一部を悪用したり、文脈から外したりする可能性があるので、私は警告しなければなりません」
「Y.Y文章」はソーが懸念した通りに使用したと言えよう。マリーはスピーチの最後を結論としてこうまとめた。
「これらのことから『誰もがずっと知りたかった慰安婦のこと(でも、聞くのが怖かった)』は、信頼できる歴史の専門家の意見として受け取るべきではなく、むしろ非常に批判的に見ていくべきです。ご清聴ありがとうございました」
会場は大きな拍手に包まれた。
学問の自由とは
今、日本にいるマリーに重ねて訊いた。
――あなたのみならず、他の日本学科のドイツ人学生たちをこのシンポジウム開催に駆り立てた原動力は何だったのでしょうか。
「私はドイツ人ですから、いつもドイツ人の観点から物事を見ます。それはドイツの政府の立場からというわけではありません。ドイツの教育を受けた者としてです。ドイツの学校では、第二次世界大戦の歴史について10歳から徹底的に学びます。当時の社会はどのような背景があったか、なぜヒトラーが圧倒的な支持を受けて侵略戦争に向かい、ユダヤ人を虐殺したのか。ドイツで歴史を学ぶということは、暗記をすることではなく、考えるということなのです。問題を何度も議論して卒業していくことになります。そういう私たちからすれば、日本国総領事館が出したあの『Y.Y文章』は、日本を研究する学生として看過できるものではありませんでした」
――日本では、政府にとって不都合な研究をする学者が総理によって学術会議会員への任命を拒否されたといわれています。
「ドイツでは考えられません。学問にとって自由こそが大事です。自由なくして学問は成り立ちません。学者は政権のために研究を捧げるのではなく、真実のために学び、それで批判すべきことは批判する。それが大事だと思います」
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筆者は現在、駐オーストリア日本大使を務める水内氏に向けて、学生たちが開いたシンポジウムの資料を添付した上でウィーンの日本大使館に質問状を送った。
ドイツの日本研究者たちが、事実の間違いを大学で指摘するような論文をなぜ領事館のウェブサイトに掲載されたのか? 商工会議所での講演の内容は誤りだらけであったと日本人を含むドイツのアカデミシャンたちは指摘しているが、なぜ、そのような講演をされたのか? 2024年末に送ったが、返事はまだない。