中島 この会見では、こんなことも語られます。
感謝される機会が日頃あまりにも少ない方々にも、謝意を述べたいと思います。スーパーのレジ係や商品棚の補充担当として働く皆さんは、現下の状況において最も大変な仕事の一つを担っています。皆さんが、人々のために働いてくださり、社会生活の機能を維持してくださっていることに、感謝を申し上げます。
スーパーのレジ係への謝辞に象徴されるように、メルケルの言葉を聞いた国民は、「首相は国民のほうにしっかりと目を向けている」という感覚、首相と自分がつながっているという感覚を非常に強く持つと思うんですね。そういう象徴的な言葉をこれほどクリアに分かりやすく出せる政治家を、久しぶりに見たと感じました。
また、もう一つ、私が彼女を素晴らしいと思うのは、自分の言ってきたことが間違っていたと気づいたときに、きちんと転換ができる人だということです。
それがよく表れていたのが、原発の問題ですね。ドイツは福島第一原発事故の後、当事者である日本以上に大きな方向転換をしました。2011年5月に、「2022年までに全原発を停止する」と、「原発を手放す」方向性を明確にしたのです。
若松 メルケルは、世界を冷静に見る「目」と人の心を見る「眼」、両方の眼を備えた人だという気がします。冷徹なまでの現実主義と、人の心の痛みを感じ取る力とが、彼女の中には併存している。これは、リーダーにとってかけがえのない資質ですよね。
日本の政治家を見ていると、冷徹な現実主義のほうだけで、もう一つの「眼」を備えていないと感じる人が多いのが怖いですね。人の痛みを感じることができず、冷徹な目でだけものを見て行動するリーダーは、必ず間違うと思うのです。
中島 しかも、困ったことにその冷徹なはずの目までが濁っている政治家も多いように感じます。
言葉を超えた「コトバ」とは?
中島 言語学者の井筒俊彦は、言語によって伝えられる「言葉」とは別に、その人の態度や存在そのものから、言葉の意味を超えた何かが伝わってくるようなものを「コトバ」と呼びました。大切な思いが「言葉」にならないことって、私たちにはよくあると思います。「言葉」にならないからといって、その思いが存在しないというわけではありません。時に沈黙のほうが雄弁であることさえあります。「言葉」を超えた「コトバ」の世界があると思うのですが、若松さんのおっしゃる「人の心を見る眼」を備えた人は、この「コトバ」で伝えることのできる人でもあると思います。
私はドイツ語がまったく分からないのですが、それでもメルケルの演説を聴いているとどこかぐっと迫ってくるものがある。それは、彼女が「言葉」だけではなく「コトバ」を発しているからだと思うのです。
若松 華美な表現が使われているわけでもなくて、非常に冷静に、率直に話をしているだけなのに、それ以上のものが伝わってきますね。言葉以上のコトバが、そこにあふれているということだと思います。
韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相の会見にも、同じことを感じました。彼女もやっぱり言葉だけではなくコトバを発している人だ、と。「私たちはこんなことをやりました」というだけではなく、「私たちの経験を、世界の経験として生かしてほしい。私たちも他の国の経験から学ぶ」という態度がはっきりと表れていた。そうした、「危機になればなるほど開かれていく」という姿勢も、リーダーにとってとても大事だと思います。
中島 政治家ではないのですが、私が「コトバが語られている」と感じたのは、日本相撲協会の八角理事長が、三月場所の千秋楽で挨拶したときです。彼は話し始めに、ぐっと涙を堪えるように黙り込みました。そして、「元来、相撲は世の中の平安を祈願するために行われて参りました」と話し、最後に新型コロナウイルスによって亡くなった人たちへの哀悼の意を述べたのです。
これもまた、非常に平易な表現でしたが、「コトバがあふれている」ところがあったと感じました。それはやはり、この状況下で開催していいのかどうかを悩み、最終的に無観客でやる、しかし一人でも感染者が出たら中止するというぎりぎりの選択をした八角理事長の、さまざまな葛藤や苦しみが表れていたということだと思います。逆に言えば、我が国のリーダーには、そうした葛藤や苦しみがないから、コトバが表れてこないのではないかと思うのです。
若松 プロンプターに映し出される言葉とは違って、コトバはその人の中からしか出てきません。内在するものがなければ、コトバは何も出てこないのです。
メルケルにしても康京和にしても八角理事長にしても、それまでの政策や行動への評価はさまざまかもしれません。それでも、彼らの中には言葉を超えて蓄えてきたものがずっとあり、それが今回のような危機の状況になって一気に湧出してきたということだと思います。
中島 勉強ができるとか、哲学を知っているとか、そういうことではないんですよね。誠実に、真摯に現実と向き合い、葛藤しながらいろんな痛みを経験してきた人間からは、おのずと言葉にならないコトバが発せられてくる。それを人はどこかで感じ取るからこそ、その人と一緒にやっていこうと思えるわけです。そうしたコトバを発せられる人こそがリーダーなのではないでしょうか。そのコトバが我が国のリーダーには存在していないということが、今回の危機であぶり出されたと思っています。
若松 コトバを生み出すのは、「無私」の精神だと思います。ここでいう「無」は、「私」を無くすということではなく、超えていくということです。英語でいえば「no self」ではなく「beyond self」、私自身を包み込みつつも私を超えていくというイメージです。それができていることが、コトバが発せられるための最低条件だと思うのです。
「私」を超えるということは、代わりに何かが前に出てくるということです。それは場合によって民衆の声であったり、相撲の歴史であったりするけれど、自分よりも前に出てくるものがあったときにコトバが発せられるのだと思います。
「自分を超えて何かを前に出す」というのは、なにも特別なことではなくて、たとえば親と子の関係などではしばしば見られるあり方のはずです。
プロンプター
講演や演説などで、原稿・文章を電子的に表示する装置のこと。透明な板に、モニターの文字を反転させて映し出すものが一般的。
八角理事長
1963年生まれ、年寄・八角 信芳(はっかく のぶよし)。元・第61代横綱北勝海。第13代日本相撲協会理事長。
井筒俊彦
1914~1993年。イスラーム学者、東洋思想研究者。慶應義塾大学名誉教授。日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、イスラム哲学、イスラム神秘主義と言語学の研究に取り組む。仏教思想・老荘思想・朱子学なども視野に入れ、東西の哲学・宗教を横断した独自の「井筒哲学」を構築した。