しかし、それを政治の場、あるいは危機が迫っているような場面で実行できる人は非常に限られている。それをできる人こそが、リーダーなのだと思います。
「命の統計学」から「いのちの政治学」へ
中島 言葉とコトバの話に続いて、今回の対談のタイトルにもしている「いのち」についてもお話ししていきたいと思います。
私は「いのち」という言葉を、肉体的な生命を指す漢字の「命」よりももっと幅広い、人間の尊厳などを含み込んだ概念を指す言葉として使っています。私たち人間は、単に命だけを生きているのではない。身体は生きていても、いのちが失われてしまうことはあるし、逆に命は失われても、いのちが生きていることはあり得る。自由を奪われ従属を強いられた奴隷は、命はあっても、いのちが消えているかもしれない。死者は命がなくても、多くの人に想起され、振り返られることでいのちを保っている。そういう関係性が存在していると思うのです。
新型コロナウイルス感染症によって何人死亡した、陽性反応が何人出たなど、数値化したデータが表すのは、この「命」のほうだけの問題です。しかし、そこで問題になるのは、では「いのち」のほうはどうなのか、ということ。病気にかかったかどうかにかかわらず、私たちは今、誰もがいのちの危機に瀕しています。そこにどういうメッセージを届けられるかが、リーダーにとって非常に重要ではないかと思うのです。
今の政治においては、統計的な数値によって表される命の問題ばかりが語られがちです。この「いのちの政治学」の対談ではそうではない、いのちに語りかけるようなコトバや政策とはどういうものなのかを考えたいと思っています。
若松 「命」というのは、計量かつ論証可能なもの。対して「いのち」とは、計量も論証も不可能で、けれどたしかに存在すると実感できるものだと思います。私たちにとっては両軸がどうしても必要であって、メルケルの話も、その両方をしっかりと見据えているからこそ私たちの胸に響くのではないでしょうか。
数字や言葉だけでは示せない、いのちというものをどう分かち合っていくのか。それが「いのちの政治学」だと思います。
中島 若松さんは最近、こんなツイートをされていました。
愚劣な政治は「いのち」を簡単に量に換算する。数字で語る事で理解したと思い込む。だが、現実はまったく違う。病むのはいつも誰かの大切な人であり、世界でただ一つの存在だ。これが「きれいごと」にしかならないなら、文学も哲学も芸術も不要だろう。これらはつねに、「いのち」の表現だからだ。(2020年3月14日)
おっしゃるとおりだと思います。そして、計量可能な命の面ばかりを語ろうとする人たちはいつも、その「量」をごまかそうとします。被害を小さく見せようとし、逆に危機を煽ろうとするときには数値を大きく見せようとする。それがこれまで行われてきた「命の統計学」だったのではないでしょうか。私は、そこにコトバを突きつけることで、それとは違う「いのちの政治学」の地平を開いていきたいと思うのです。
「命の統計学」の象徴が、水俣病の問題ですよね。被害をとにかく小さく見せようとごまかしが続けられた結果、救えたはずの多くの命が失われていった。そして、尊厳や社会関係といういのちまでもが奪われた。私たちが水俣から学ぶべきことは、非常に大きいと思います。
若松 現代においては、「数ではっきりと示せない」ことと、「存在しない」ということが、同じこととして扱われるようになっている気がします。でも本来、その二つはまったく別のことのはずです。
たとえばアウシュビッツにおけるユダヤ人虐殺について、600万人も殺されたなんて嘘だ、だからジェノサイドではなかった、などと主張する人がいます。しかし、ジェノサイドというのは、亡くなった人の数の問題ではないのです。仮に600万人という数字に誤りがあったとしても、亡くなったのが一人だったとしても、アウシュビッツで行われたことは許されてはならないはずです。
中島 私の専門の政治学で必ず学ぶことの一つに「統治の原理」というものがあります。ある国が植民地を支配するときに何を重視するかということなのですが、その大原則が「数を数える」ことと「分類する」ことなんです。
たとえば、イギリスによるインドの支配においても、最初に行われたのはインドの人々に「宗教は何か」「カーストは何か」といったことを尋ねて集計する、いわば国勢調査でした。実はそれまでのインドでは、宗教の境界線は曖昧で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が明確に区分されていたわけではなかったのです。そもそも、ヒンドゥー教という概念が成立しておらず、一枚岩の宗教という認識もなく、さらにカーストの区別も明確ではありませんでした。イギリスはそれを無理やり、あらかじめ分類したカテゴリーにあてはめていきました。どういう分類の人がどこに何人住んでいるのかを把握することで、徴税をはじめとするいろんなシステムをつくっていくというのが、近代国家の原理だからです。
私は、この数と分類による「統治の原理」を超えたところにこそ、本当の政治があるのではないかと思っています。そして、そこを知るためには、いわゆる政治学だけではなく、文学や宗教といったものに接近していく必要がある。そこから「いのちの政治学」が見えてくると思うのです。
*後編につづく。「今、リーダーに必要なこととは?」(後編)はこちらです。
プロンプター
講演や演説などで、原稿・文章を電子的に表示する装置のこと。透明な板に、モニターの文字を反転させて映し出すものが一般的。
八角理事長
1963年生まれ、年寄・八角 信芳(はっかく のぶよし)。元・第61代横綱北勝海。第13代日本相撲協会理事長。
井筒俊彦
1914~1993年。イスラーム学者、東洋思想研究者。慶應義塾大学名誉教授。日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、イスラム哲学、イスラム神秘主義と言語学の研究に取り組む。仏教思想・老荘思想・朱子学なども視野に入れ、東西の哲学・宗教を横断した独自の「井筒哲学」を構築した。