中島岳志さんと若松英輔さんー“コロナ後”を見据えての対論連載第2回。今、リーダーに必要とされるものとは? の後編をお届けします。
*「いのちの政治学~コロナ後の世界を考える」第1回 今、リーダーに必要なこととは?(前編)はこちら
「コトバ」を待つ──石牟礼文学を生み出したもの
中島 先ほど(注・連載1回目の後半)水俣の話に触れましたが、『苦海浄土』などの作品で水俣病の人々の苦しみと向き合い続けた作家・石牟礼道子さんも、「いのちの政治学」を考える上で重要な人物だと思います。
というのは、石牟礼さんこそはまさに「コトバ」の人だったと思うからです。私は生前、1回だけお会いしたことがあるのですが、非常に印象的だったのが、石牟礼さんが、お話ししているときに「躊躇なく沈黙する」ことだったんですね。
若松 よく分かります。私も石牟礼さんとは晩年、親しくさせていただいていたのですが、あの沈黙は最初、とまどいますよね。
中島 こちらが何か聞いても、1分くらいじーっと黙って返事をなさらないことがよくあるんですよね。でも、それは「何かいいことを言ってやろう」と考えているわけではまったくない。何らかのコトバがやってくるのを、耳を澄ませて待っているがゆえの沈黙だったと思うのです。「語る」ことすら奪われてしまった人たちの「声なき声」にそうして耳を傾けることによって、石牟礼文学は成立していた。その意味で、『苦海浄土』はノンフィクションともまた異なる文学だといえると思います。
若松 さっき言った、コトバが生まれてくるのは無私になったときだというのは、日常においては私たちの「言葉の玉座」には自分自身が座っているからです。そうして「私」を語ろうとしている間は、コトバは降りてきてくれない。石牟礼さんは沈黙している間、玉座に座るのでなくその横で待っていたのだと思います。そこで何者かが彼女にコトバを託し、語り始めるまでの時間が、「1分間の沈黙」だったのではないでしょうか。
現代においては、表現といえばすぐに「自己表現」となりがちですが、石牟礼さんのように、逆に自己を手放すことによって表現できる人たちというのもたしかに存在している。そして、リーダーというのも、そういう人でなくてはならないと思うのです。
自己を語るのではなく何者かに託されたコトバを語るわけですから、時には自己を否定しなくてはならない場合もある。先ほど中島さんがおっしゃった「過去の過ちを認めて転換できる」のがメルケルのすごいところだというのも、そういうことではないでしょうか。今、発言することが、かつての自分の発言が否定され、糾弾されることになるかもしれない。けれど、それが、時代が私に託してきたコトバである以上、語らざるを得ない、ということだったと思うのです。
中島 対して日本の政治家の多くは、過去の自分にずっとしがみついているから、そうした「転換」ができないんですね。
私は大学でヒンディー語を学んだのですが、最初につまずいたのが「与格(よかく)」という文法の構造でした。これは、感情表現などが典型的なのですが、「私は悲しい」というときにも、主語を「私」にしないんです。直訳すると「私に悲しみがやってきて、とどまっている」という言い方をするんですね。これは言語についても同じで、「私はヒンディー語を話せます」というときは、「ヒンディー語が私にやってきて、とどまっている」という言い方をする。私が主体として「何か」をとらえるのではなく、私にやってくる「何か」が存在しているという考え方なんです。
そして、その「何か」は、自分を超えたところからやってくる、私にはコントロールできないもの。私はその「何か」を受け止める器にすぎない、という感覚ですね。この「何か」こそがコトバだと思うのです。こらえても流れてくる涙や悲しみで震える手は、言葉以上のコトバです。こうした「与格」的な姿勢こそが、人の胸を打つ。その本質を、インドの人々はよくとらえていたのではないかと思います。
「弱くあること」から学ぶ
中島 もう一人、石牟礼道子と並ぶ「コトバ」の人であったと私が考える文学者が、広島での被爆体験をもつ作家、原民喜です。
彼は1944年、38歳のときに11年間連れ添った妻を病気で亡くしているのですが、病床にいる妻を前にしてこんなことを書いています。
「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……」(『遥かな旅』)
それほどまでに、原にとって妻は大きな存在であり、精神的な支柱でもありました。人付き合いの苦手だった原は、妻が隣にいなければまともに会話もできなかったともいわれています。
しかし、実際には彼は、妻が亡くなった後も、自死を選ぶまで6年あまりを生きることになります。なぜかといえば、原爆に遭ったからです。原の実家は広島の爆心地近くにあり、そこで被爆した彼は、多くの人があまりにも「無造作な死」を迎える凄惨な光景を目の当たりにすることになりました。
いわば、それまで生きてきた現実の世界が根底から崩壊してしまった。そのときに原は、自分には生きて発しなくてはならないコトバがある、命は絶えてもいい、けれどいのちを生きるためには死者とともに語らなくてはならない、と考えた。そうして書かれたのが、『夏の花』などの作品だったのだと思うのです。
原の作品は、人が危機におかれたときにどのようなコトバがあり得るのかということを考える上で大きな意味を持ちます。今また病による危機にさらされている私たちにとって、重要な問いかけだと思います。
若松 私は原民喜とは縁があって、『夏の花』に出てくる場所を何度か歩いたりしたこともあるのですが、彼は決してもともと強い人ではない、むしろ非常に繊細で、ある意味では弱い人だったと思います。
石牟礼道子
いしむれ・みちこ。1927~2018。作家。熊本生まれ。水俣病への関心を深め、患者たちの代弁者として『苦海浄土 わが水俣病』(69年)をまとめあげる。『苦海浄土』の連作を加筆し、04年「石牟礼道子全集」に収載。その他、『十六夜橋』、『はにかみの国 石牟礼道子全詩集』などの作品がある。
原民喜
はら・たみき。1905~51。作家。広島生まれ。慶應義塾大学卒。44年に妻が病死。45年広島に疎開し、被爆。被爆体験をつづった『夏の花』を47年に発表。51年に鉄道自殺。代表作に『災厄の日』『心願の国』などがある。