中島岳志さんと若松英輔さん。この心を閉ざしがちな危機的な状況の中で、お二人に“コロナ後”を見据えての対論連載を始めていただくことになった。私たちの心に平穏をもたらす政治家とは? 過去から未来へ、縦横無尽に検証する。
二人の「リーダー」の演説
中島 「いのちの政治学」と題したこの対談では、政治家や運動家など、過去に存在したさまざまな人物の歩みを振り返りながら、私たちに今必要な「リーダー」というもののあり方を改めて考えていきたいと思っています。
「リーダー」のあり方を再考する必要性を切実に感じたのは、我が国の首相、安倍晋三氏が2020年2月29日に行った、新型コロナウイルス対策に関する記者会見のときです。あの会見で、首相はそばのプロンプターに映し出された原稿をひたすら読み上げるだけで、自分の言葉で語ろうとはまったくしませんでした。記者からの質問に対しても、事前に官僚が作成した回答を読み上げるのみで、他の質問は無視。質問できなかった記者が「まだ質問があります」と叫んでも、首相は振り返りもせずに去っていきました。
おそらくこのときに限らず、私たちはもう何年も、安倍首相という人の「声」を聞いていないのではないでしょうか。首相という一国のトップでありながら、誰かが用意したものをただ読み上げるだけの、非常に空虚な存在になっている、そのことがよく表れていた会見だったと思います。
しかも、会見を目にする国民のほうは「イベントは中止しなきゃいけないのか」「これからの生活はどうなるのか」と、非常に大きな不安を抱えていたはずです。それに向けて、最低限の補償すらも示さず、「同じ苦しみの地平に立っている」という感覚を与えることさえできなかった。いわゆる「森友問題」では、公文書の改ざんを強要されて自殺に追い込まれた財務省近畿財務局職員の遺書が出てきてもなお、いまだしっかりとした説明がなされていませんが、それとも共通する日本政府の態度をよく表した会見だったといえます。
一方、安倍首相の会見と非常に対照的に映ったのが、3月18日に行われた、ドイツのメルケル首相のテレビ演説でした。彼女は、コロナ危機について国民に向けて、こう語りかけています。
これは、単なる抽象的な統計数値で済む話ではありません。ある人の父親であったり、祖父、母親、祖母、あるいはパートナーであったりする、実際の人間が関わってくる話なのです。そして私たちの社会は、一つひとつの命、一人ひとりの人間が重みを持つ共同体なのです。
つまり世界中で、新型肺炎の致死率はこのくらいで、死者は何人で、それをこれからどのくらいの規模に抑えて……といった「数字」によってコロナ危機を語る言説があふれている中で、彼女は「抽象的な数字の問題ではない」と言い切ったわけです。そうではなく「生きた人たち」の話なんだと明確に、しかも非常にクリアでやさしい言葉で国民に投げかけているんですね。
その後、「戦いの最前線」に立つ医療関係者や、食料品などの供給を担うスーパーの店員などに感謝の言葉を述べた後に、国民に協力を呼びかけます。
誰もが等しくウイルスに感染する可能性があるように、誰もが助け合わなければなりません。まずは、現在の状況を真剣に受け止めることから始めるのです。そしてパニックに陥らないこと、しかしまた自分一人がどう行動してもあまり関係ないだろう、などと一瞬たりとも考えないことです。関係のない人などいません。全員が当事者であり、私たち全員の努力が必要なのです。
感染症の拡大は、私たちがいかに脆弱な存在で、他者の配慮ある行動に依存しているかを見せつけています。しかしそれは、結束した対応をとれば、互いを守り、力を与え合うことができるということでもあります。
(中略)
誰も孤立させないこと、励ましと希望を必要とする人のケアを行っていくことも重要になります。私たちは、家族や社会として、これまでとは違った形で互いを支え合う道を見つけていくことになるでしょう。
この文章を読んで、私は我が国のリーダーとのあまりの落差に愕然としました。若松さんは、どう感じられましたか?
若松 今日の日本のリーダーとメルケル首相との決定的な違いは、その言葉の「方向」だと思います。
日本のリーダーの話は、「私が考えていることを国民に伝える」というかたちを取っています。しかし、メルケルがやったのはそのまったく逆で、「あなたたちが思っていることを、私が言葉にして伝える」ということだったと思います。つまり、メルケルが語ったのは、メルケル自身の言葉であると同時に、みんなが気づいていて、けれど言葉にできなかった思いだったのではないでしょうか。
スーパーマーケットの売り場で働く人たち、あるいは宅配便や郵便を運ぶ人たちといった、賃金からいえばおそらく高いわけではない職種の人たちが、これほどまでに社会を支えていたことを、私たちは今回初めて実感したと思います。そのように、平常時に見ていた社会とまったく違う社会の実相を今私たちは見ているということを、メルケルはまず言いたかった。その上で、この状況を乗り越えるには協力し合うほかはないのだとみんなが感じている、それを改めて言葉にして示してみせた。これこそリーダーの役割ではないかな、と思いました。
プロンプター
講演や演説などで、原稿・文章を電子的に表示する装置のこと。透明な板に、モニターの文字を反転させて映し出すものが一般的。
八角理事長
1963年生まれ、年寄・八角 信芳(はっかく のぶよし)。元・第61代横綱北勝海。第13代日本相撲協会理事長。
井筒俊彦
1914~1993年。イスラーム学者、東洋思想研究者。慶應義塾大学名誉教授。日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、イスラム哲学、イスラム神秘主義と言語学の研究に取り組む。仏教思想・老荘思想・朱子学なども視野に入れ、東西の哲学・宗教を横断した独自の「井筒哲学」を構築した。