パレスチナ難民
48年5月の第一次中東戦争によって土地を追われたパレスチナ難民は約70万人。50年に施行された不在者財産没収法により、47~48年9月までの間にパレスチナの居住地を離れたパレスチナ人の土地、家屋などの財産は没収され、イスラエルの国有地・財産となった。イスラエル国土の9割強が国有地であるが、大半は、この時没収された土地と推定される。難民らは、国も国籍もない状態で離散生活を強いられた。
1956年 第二次中東戦争
スエズ運河の国有化をめぐって、エジプトと英・仏・イスラエルが戦争。
1964年 パレスチナ解放機構(PLO)誕生
1967年 第三次中東戦争
イスラエル軍が大勝して西岸とガザ地区を占領し軍政を開始(ガザ占領は2005年まで)。
国連安保理決議242
中東和平交渉の基礎となる唯一の国連安全保障理事会決議。1967年の第三次中東戦争(67年戦争)の際、安保理は決議242を採択した。同決議は、イスラエル軍に67年戦争で占領した地域(ゴラン高原、西岸・ガザ、シナイ半島)からの撤退を求め、同時に、地域にあるすべての国の存続を認めた。同決議は、イスラエルの存在を認める決議であり、「領土と和平の交換」を原則としている。決議242は、イスラエルと隣接する国・組織(レバノン、シリア、ヨルダン、エジプト、パレスチナ)がイスラエルと交渉をする際の基礎となっている。73年の第4次中東戦争の際、安保理が決議した安保理決議338の内容は決議242の履行を求めるもの。
1970年 ヨルダン内戦
ヨルダン政府がPLOを国外へ追放、PLOはレバノンへ拠点を移す。
1973年 第四次中東戦争
エジプト軍とシリア軍が実施したイスラエルへの奇襲作戦。ユダヤ教の祭日に実施されたため「ヨム・キプール戦争」とも称される。イスラエルは、アラブ諸国の動きを誤認したため、情報分析の失敗例として有名。同戦争の際、石油危機に。なお戦いは、引き分けで終了。
1979年 イスラエルとエジプトが国交樹立
イスラエルとアラブ諸国間の最初の国交樹立・和平条約。イスラエルは1982年にシナイ半島をエジプトに返還。エジプトとの和平は、イスラエルの安全保障の基盤。
1981年 イスラエルがゴラン高原併合
第三次中東戦争で占領した地域で、戦後、イスラエルが併合したのは東エルサレムと同高原だけ。国際的には承認されていない。
1982年 レバノン戦争
イスラエルがレバノンの首都ベイルートを包囲、PLOは国外に退去し、中東各地へ。同戦争後、闘争の中心はイスラエル占領下の西岸とガザに移行。
1987年 第一次インティファーダ
第一次インティファーダ
1987年12月初旬、ガザの入り口で起きた交通事故を契機に発生した。当初は無統制の住民暴動だったが、88年春ごろには統一され、目標を持つ政治運動になった。メディアは、暴動・住民蜂起という言葉からインティファーダ(揺らす)というアラビア語表記をそのまま使用するようになった。イスラエル軍は、数百万人が行う反占領運動を抑制できず、武器を使わず投石する若者を兵士が銃撃する事態に追い込まれた。イスラエルの占領政策は、国際社会とイスラエル国内からの厳しい非難に直面した。力による鎮圧ができないイスラエルは、政治的な解決を模索した。第一次インティファーダは、パレスチナ人の政治的威信を国際的に高めた。
1988年 PLOが西岸とガザ地区にパレスチナ国家建設宣言
ハマス台頭
PLOは、イスラエル全土の解放という実現不可能な目標をあきらめ、より現実的な政策である西岸・ガザにパレスチナ国家を建設する戦略に転換した。イスラエルは、当初、同宣言を無視したが、この戦略転換により、その後両者の政治交渉が可能になった。ハマスは、同宣言に反対した。
オスロ合意とそれ以後
1993年 イスラエルとPLOが相互承認(オスロ合意)