相互承認
イスラエルとPLOが、お互いに敵であり、従って、交渉相手であると公式に認めた1993年の歴史的合意。同承認の前と後では、両者の関係は劇的に変化した。イスラエルとPLOは、長年相手の存在を認めていなかった。そのためパレスチナ紛争は「当事者なき紛争」と称された。しかし、87年末から西岸とガザで発生したインティファーダが鎮圧できないイスラエルは、政治交渉によって収拾を図るしか選択肢はなかった。88年秋、PLOは「パレスチナ独立宣言」を採択し、事実上イスラエルの存在を承認した。イスラエルとPLOは、93年初頭からオスロで秘密交渉を開始し、夏までに合意に達した。秘密交渉での合意を公式な合意とするためには、イスラエルとPLOの関係を公式化する必要があった。93年9月9日、ノルウェーのホルスト外相は、PLOのアラファト議長の書簡をイスラエルのラビン首相(いずれも当時)に運び、ラビン首相の手紙をアラファト議長に運んだ。同書簡は、イスラエルの首相が、PLOの議長に初めて公式に送った、ただ一文からなる書簡だった。その一文で、ラビン首相は、PLOを交渉相手として承認した。相互承認の直後、アメリカはPLOに対する法的扱いを変えた。その結果、アラファト議長は、9月13日にアメリカを訪問し、ホワイトハウスでクリントン大統領(当時)と会談し、オスロ合意の調印式に参加することが可能となった。
1994年 イスラエルとヨルダンが国交樹立
西岸とガザ地区でパレスチナ暫定自治開始
パレスチナ暫定自治政府
パレスチナ国家樹立に向けて、西岸・ガザ地区で、外交や対外安全保障を除き、行政サービス・治安維持などを担当するため設置された機関。パレスチナ人の自治権は1993年9月、「暫定自治に関する諸原則」(オスロ合意)で確立した。その後、政治的権利が拡大、96年1月にパレスチナ立法評議会議員・首長(現在は「大統領」)を選出する総選挙が実施され、アラファトPLO議長が暫定自治政府大統領に就任した。自治政府は、立法権限は評議会(PLC 議席132)が有し、行政権限は大統領を長とする行政機関が有する。また司法は、イスラエル軍の法令が優先され、西岸ではヨルダンの法体系、ガザではエジプトの法体系が機能している。なお、憲法に相当するものとして、2003年3月に基本法を制定している。
1995年 オスロ合意の当事者であるイスラエルのラビン首相が同国の過激主義者によって暗殺
2000年 第二次インティファーダ(~2005年)
第二次インティファーダ
2000年9月に当時のリクード党首、アリエル・シャロンが、東エルサレムの「神殿の丘」訪問を強行したことを契機に発生した。第一次と異なり、パレスチナの武装勢力が中心の武装闘争。加えて自爆テロが多用され、一時は準戦争状態になった。しかし、無統制の武力闘争に政治的目的も戦略もなく、一般住民の参加はほとんどなく、05年ごろに下火になった。国内での自爆テロに恐怖したイスラエル人は、パレスチナ人に対する不信感を強め和平達成への期待は消えた。バスやレストランへの自爆テロもあり、国際社会はパレスチナへの批判を強めた。同じインティファーダという言葉が使用されるが、第一次と第二次は、まったく異なる運動である。
2001年 パレスチナ強硬派のリクード党シャロンがイスラエル首相に就任
2002年 イスラエルがパレスチナの境界地域に分離フェンス建設
イスラエル国内での爆弾・自爆テロに手を焼いたイスラエルは、西岸とイスラエルの境界線に沿って壁の建設を開始した。
2003年 アメリカが中心となりパレスチナ国家樹立のロードマップ(行程表)を作成
2004年 PLOのアラファト議長死去、翌年アッバスが議長に就任
2005年 イスラエル軍と入植者がガザから撤退・退去
シャロン首相(当時)が決定したが、その意図について語る前に、病気で倒れたため分離の目的は明らかではない。西岸占領を維持するため、人口の多いガザを切り離したと推定される。イスラエル軍と入植者は、ガザから撤退・退去したが、イスラエル軍は、ガザ境界の陸・海・空の管理を継続。イスラエルは、ガザ占領は終了としているが、国際的には占領は継続と見なされている。
2006年 ハマスがパレスチナ評議会選挙で大勝
国際社会は、ハマスの政権に対して、(1)非暴力、(2)パレスチナとイスラエルの間で成立した過去の合意の承認、(3)イスラエルの認知、を求めたが、ハマスは、その要求に対して沈黙。その結果、ハマスは、政治的、外交的、経済的に孤立。
2007年 ハマスがガザを武力で掌握(→ガザの国境・境界問題)