正式名称は「大日本国防婦人会」。映画やドラマで、戦地に向かう兵士を見送る場面などで、白いかっぽう着を着て「国防婦人会」と書いたタスキをかけ、日の丸の小旗を打ち振る女性たちを見たことがあるだろう。あれが国防婦人会である。
前身は満州事変の翌年、1932年3月に、主婦たちによって結成された大阪国防婦人会。献金運動や出征兵士の見送りなどを行う運動で、最初からタスキにかっぽう着というスタイルだった。
軍隊の慰問などを行う「愛国婦人会」という団体はすでに存在していたが、知事夫人が県支部長を務める愛国婦人会が上流階級女性の社交場のようだったのに対して、国防婦人会は庶民的で会費も安かった。かっぽう着なら着物を気にする必要もなく参加できる。そのため庶民の主婦層で会員が増えていき、同年10月には全国組織となった。軍主導で上から組織されるようになると、会員数は大阪国防婦人会発足当初の40人から、1941年には900万人を超えた。
その運動内容は、兵士の出征に際しての接待や洗濯ボランティア、傷病兵の出迎えや見舞い、戦死者の遺骨の送迎、古金物献納運動(溶かして兵器生産などに使う)、「ぜいたくは敵だ!」のスローガンのもと、街で「華美な服装はつつしみましょう」と書いた「警告カード」を配ることなど、多岐に及んだ。遠足や料理の講習会もあった。
戦後のドラマでは小うるさい女性たちのように描かれているし、そのとおりかもしれないが、参加した女性たちにとっては、社会参加の喜びを伴うものでもあった。婦人参政権要求運動を率いていた市川房枝は、「国防婦人会については、いうべきことが多々あるが、かつて自分の時間というものを持ったことのない農村の大衆婦人が、半日家から解放されて講演をきくことだけでも、これは婦人解放である」と自伝で振り返っている(『市川房枝自伝 戦前編』新宿書房、1974年)。中心的な活動家ともなれば、講演を聞くだけでなく自らが演壇に立って訴えるし、戦場に向かう兵士たちにお茶を配るために夜を徹して駅のホームに立ったりする。新橋では料亭の女将や女中、芸妓など900人が集まって国防婦人会の分会をつくったという。
社会参加を求める女性たちの思いが戦争協力にそのかたちを見出し、軍部がそれを利用した構図とも言えるだろう。
1941年12月、太平洋戦争が始まり、総力戦体制がさらに深まると、それまで競い合っていた大日本国防婦人会(軍部主導)、愛国婦人会(内務省主導)、大日本連合婦人会(文部省主導)の3団体が政府によって統合され、1942年2月には「大日本婦人会」となる。
しかしそのころには、もはやボランティアではなく生活そのものが「決戦」の場となり、女性たちの現場は「隣組」となった。かっぽう着ではなく、防火などの行動に適した「もんぺ」が普段着となった。政府は「婦人よ、家庭に帰れ」と呼びかけた。国防婦人会の時代は、戦争が終わる前に終わっていたのである。