「ヤミ市」とも表記する。「闇」とは「公定価格」ではないということ。
戦争が終わっても、商品価格の統制(公定価格)と主要物資の配給制度は続いていた。しかし統制はモノ不足の表れである。配給制度はほとんど崩壊しており、「このままでは1000万人が餓死する」とまで言われていた。そこで人々が生きるために採った手段が農村への買い出しであり、もう一つが「闇市」だった。
闇市が最初に現れたのは東京・新宿。玉音放送から5日後の8月20日には、新宿駅東口の中村屋の手前から三越までの新宿通りに、露店が連なる「新宿マーケット」がつくられた。木材で枠を組み、日よけのよしずを載せただけの仮設建築で、もちろん不法占拠である。
開設したのは尾津喜之助が率いるテキ屋(露店商)の「関東尾津組」。尾津は「光は新宿より」というスローガンを屋根に掲げた。戦後復興はここから始まるという宣言だ。
その後、三越裏にもテキ屋の和田組が、新宿駅西口一帯では同じく安田組が、それぞれ闇市を開いた。
闇市は東京の至るところにできた。主なところで言うと、渋谷は道玄坂と東急本店通りの二辺に挟まれた三角地帯(今の「109」の周囲)、新橋では当初、東口に作られ、後に西口(今のSL広場あたり)に移った。浅草公園には古着を中心とした闇市ができた。上野駅から御徒町駅にかけてのガード下では、引き揚げ者たちが飴(アメ)を売り始めた。さらにアメリカ軍の横流し物資も売られるようになった。これが「上野アメヤ横丁」、通称「アメ横」の始まりである。
東京以外では、大阪の梅田や鶴橋、名古屋では「駅裏」と呼ばれた名古屋駅西の一帯などが有名だ。
闇市に店を出すのは戦争で家族や財産を失った人々や引き揚げ者、戦地から帰ってきた復員軍人、植民地支配から解放された朝鮮人や台湾人などだった。戦災孤児も徘徊(はいかい)した。
闇市では、不足している生活必需品の全てが売られていた。鍋、釜、包丁、せっけん、毛布、靴下、電球に文房具。日本軍のヘルメットを改造して作ったヤカンや、さらには「もうこんなものを持っていてもしかたがない」と、勲章も売りに出された。
食事や酒を出す店では、米軍の残飯を煮込んだ「栄養スープ」や、おからに鯨肉ベーコンを載せた「おから寿司」などが出された。また、牛や豚の内臓を在日朝鮮人が調理した「ほるもん」や、中国からの引き揚げ者が日本に持ち込んだ「餃子」など、それまで日本になかった料理も登場した。人々は、「ほるもん」をほおばってはカストリをあおった。
警察は当初、闇市を黙認していたが、価格統制の解除が進むとともに厳しく摘発するようになった。そして1950年6月に朝鮮戦争が始まると、日本は軍需生産が支える「朝鮮特需」と呼ばれる好景気に沸き、闇市の時代は完全に幕を閉じる。1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効で、米軍の占領統治も終わった。こうして日本は、戦後の繁栄に向かって歩み始めた。
しかし、闇市の面影を残す路地は今も各地に残っている。東京では新宿西口の思い出横丁や西荻窪駅の南口の呑み屋街、今では観光地となった上野のアメ横など。福岡の三角市場や、日本最大のコリアンタウンとして知られる大阪の鶴橋などもその一つである。