「俺の人生は何なんだ」
この言葉に反応して、私の診察室に通う何人かがメンタルの調子を大きく崩した。
これは、6月1日、東京都練馬区で、父親である元農林水産事務次官に刺殺された44歳の長男が発した言葉と報じられている。ひとり暮らしをしていたマンションから5月25日に本人の希望で実家に戻った長男は、翌日にはこう叫びながら父親に暴力を振るったという。
私もこの言葉の意味を、あれからずっと考えている。
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息子を殺害した父親は取り調べに対して、実家に帰ってきてからも「和室に布団を敷いてゲーム」ばかりの長男を見て、「周囲に迷惑をかけたくないと思った」と話しているという報道があった。ひきこもりの状態で身近な人に暴力を振るう長男を目の当たりにして、今後、他人に暴力の矛先を向けるのでは、と危惧してついに殺害に踏み切ったのではないか、といわれる。
そして、この父親に影響を与えたのは、5月28日、川崎市登戸で起きた殺傷事件だ。
事件後にその場で自殺した容疑者の男性は、スクールバスを待っていた小学生や保護者らに次々と刃物で襲いかかり、被害者20人のうち2人が死亡した。男性は51歳で無職、ほとんど外出することもなく、80代の伯父伯母夫婦の家に閉じこもって暮らしていたと報じられた。
一方は殺害された被害者であり、一方は罪のない人の命を奪った加害者である。ただ世間から見れば、どちらも「仕事もせずに親や親族のケアを受けながら、ひきこもり生活を続けてきた人」である。また、川崎のケースでは他人が攻撃の対象となったが、練馬区のケースでも親は暴力を受けていた。「経済的な苦労もしていない40~50代が、何が不満で他人や身内を攻撃したり暴力を振るったりするのか」と、疑問に思う人も多いだろう。
しかし彼らはおそらく、自らのひきこもり生活に満足していたわけではなく、いまの状態や自分への激しい怒り、将来への不安、あせりや絶望感でいっぱいだったはずだ。練馬区のケースでは、それが冒頭の「俺の人生は何なんだ」という言葉につながったのだろう。
もちろん、どのような理由があったにしても、それを暴力という形で発露させることが許されるわけではない。ましてはその暴力が無関係な他人に向かうことは何としても止めなければならず、家族の不安や苦悩はいかばかりだったかと思う。
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とはいえ、診察室には彼の言葉に共鳴し、動揺する人が多くいたのも事実だ。
「今の自分に満足していないなら、何でもやって働けばいいじゃないか」という声も聞こえてきそうだ。しかし、ひきこもり生活が長引けば長引くほど、「もう失敗はできない」という気になる。ただ、一念発起してネットで職探しをしても、資格も経験もないまま40代、50代になった人への求人は少なく、当然、条件もよくない。それを目にするとプライドもある彼らは、「この年でいまさら単純な作業はできない」と絶望の念を深めるだろう。「どうせやるなら、親や周囲の人があっと驚き“さすが”と感心してくれるようなことをしたい」という気持ちもある。働くことや外に出ることのハードルはどんどん高くなる一方だ。
では、彼らの就労や外出を阻んでいるのはその「高すぎるプライド」なのか、というと、実はそれだけではない。この人たちの多くは、「自分にはスキルもそれほどの実力もない」ということをよく知っている。「ひとに好かれるはずもないダメ人間なのだ」と必要以上に自己を卑下している人さえいる。
「このままじゃいけない、やるなら特別なことを。まだできるかもしれない」というかすかな特権意識やほんのわずかの万能感と、「でもどうせできない。自分はふつう以下だ」という大きすぎる劣等感や疎外感。この両極に心が引き裂かれ、瞬間瞬間で振り子が振揺れては、それに振り回されて自分の不安定さに自分でも疲れきっている。これが多くのひきこもりの人たちの心境だ。
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そして一方で彼らの中では、「働くこと」の意義も薄れている。
ひきこもり生活が20年、30年と続いてしまったということは、逆に考えればぜいたくさえしなければ、なんとかそれを許すだけの経済力が扶養する側にあったということだろう。例えば練馬区のケースでは、長男は毎月、ネットゲームにかなりの金額を使っていたともいわれている。親はもちろん喜んで支払っていたわけではないだろうが、それをまかなっていたことは事実だ。
「働かなくても生活できるのに、どうして今さら時給900円のアルバイトに行かなければならないのか」と、引きこもる子の側が「働くこと」に意義を感じられないのも、ある意味で当然かもしれない。ひきこもりが高齢化してくると、親はよく「ウチにはもうお金が一銭もない」とか「私たちが死んでも遺産はまったくない」などと言い出すだが、子の側はそれが事実なのか脅しにすぎないのかを敏感にかぎ分けて、後者の場合は親の不正直さにさらに怒りをつのらせることもある。
いますぐ働かなくとも、親の家にいれば生活はできる。親が死んだあとは、遺産で暮らしていくことはできそうだ。だとしたら、どうして仕事をしなければならないのだろう。
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倫理学者の大庭健氏は、2008年の著書『いま、働くということ』(ちくま新書)で、「何のために働くのか」という問題にいろいろな方向から検討を加えている。そして、人と協調しながら苦労して仕事をやりとげたときの「特有の安堵」に注目するのである。それは「趣味の場合と同じではない」として、大庭氏は次のように言う。
「自分の仕事が、回りまわって、直接には顔の見えない人々のいのち/生活の再生産に役立ってもいる、ということを実感できたとき、私たちは、仕事の喜び・仕事への誇りを感じる。」
これを心理学の言葉で言えば、「自己有用感」となるのかもしれない。自己有用感とは、「自分の属する社会や集団の中で、自分がどれだけ役に立つ存在であるかということを自分自身で認識すること」を意味する。
たしかに、大庭氏の語るような実感を仕事を手にして得て、自己有用感を認識できれば、報酬の額とはまた別に、私たちは「生きててよかった。仕事をしてよかった」と思えるだろう。ひきこもりの子に対して親が「働いてほしい」と思うのも、それが基本にあるからではないだろうか。ただ食べて、寝て、ゲームなどをしながらイライラしてすごすのではなくて、人の中で何かをやり遂げ、「自分は顔の見えない人々の役に立っている」という手ごたえを得てほしい。親はそう願っているのだ。
しかし、すぐ想像がつくように、「その実感が得られるような仕事とは何か」と考えはじめると、答えはすぐには出ないことがわかる。