工場でパンを作っている人が「これが誰かの口に入り、いのちの再生産につながるのだ」と思うことは可能だし、大学教授として高度な研究をしていても「こんなことをしても誰の役にも立たない」とむなしさを感じるかもしれない。報酬の額でもない、社会的な肩書きでもない、だとするといったい何を目安に「自己有用感が得られる仕事」を探せばよいのだろう。そう考えると、逆に身動きが取れなくなる。「お金なんて気にせずに、あなたがいちばんやりたいことをやってくれればいい」という親からの言葉は、子にとってはとんでもない難問を投げかけられたと同じだ。
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私はその昔、「ゲームばっかりやって」と非難され続けてきた子どもたちに対して、「ゲームがうまいのも十分にすごい」と評価し、まず目減りしきっている自己肯定感を少しでも回復させることで、何人か次のステップにつなげることに成功した。いまならゲーム実況のYouTuber になれば実際の収入につながる可能性もある。「このままじゃいけない」ではなくて、「このままだってそれなりにいいんだけど」とまずは思ってもらうことからしか、何も始まらないと考える。
ただ、中高年ひきこもり、と言われる人たちは40代、50代というおとなだ。情報もふんだんに持っている。その人たちに、「まあ、そのままでもいいんですけど」という言い方が通用するか、という問題がある。子どもなら「え、親はゲームなんか何の役にも立たない、と怒るよ?ほんとにゲームがうまいのは悪いことじゃないの?」とこちらの働きかけを比較的、素直に信頼してくれるが、おとなには「一度、自己肯定感を充填させ、そこから就労に結びつけようという作戦ですね?」と見抜かれてしまいそうだ。
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いずれにしても、私たちが「働くことは尊いこと」という“仕事崇拝”一辺倒の価値観からいったん解放されないと、この中高年ひきこもりの問題には手がつけられないのではないだろうか。仕事を通して「誰かの役に立っている」という自己有用感が得られればすばらしいが、もしそれがすぐ手にできなかったとしても、それは「その人生には意味がない」というわけではないのだと思う。
これは長期ひきこもりの人に限ったことではない。男性でも女性でも、何歳でも、仕事をしていなからといって、近所で白い目で見られる筋合いはない。仕事をして社会の役に立つのはすばらしいことではあるが、「社会とつながる」にしても、さまざまなやり方がある。散歩をして地域の一員であるという手ごたえをうっすらとでも感じたり、自治体の体育館やプールに行ったり、もちろんその地域のイベントに出たりしてもよいのだ。
ところが、私たちがそういう考えを受け入れられず、「お金を稼いではじめて仕事。はじめて社会貢献」という考えにとらわれている現状の中で、さまざまな理由でひきこもりの状態が続く人たちは、今日も「俺の人生は何なんだ」と呻吟し、怒り、絶望している。彼らも私たちも、「仕事がすべて。お金がすべて」というプレッシャーが高まる“圧力なべ”の中で生きているようなものなのだ。それは、ひきこもりの人にとってだけではなく、私たち誰にとっても、とても生きづらい社会といえるのではないだろうか。まず、そのことを考えてみたい。