ただ、前半で記したように、『スター・ウォーズ』の第9作では、主人公レイも、(1)の出立を遂げ、(2)のイニシエーションを経てミッションを達成し、(3)の帰還を果たしたが、帰還のあとに与えられたものは「自分の出自」という目に見えない答え、ただひとつであったわけだ。しかし、ここでレイが金銀財宝や支配者の地位や高貴な家柄の夫を与えられたとしても、観客は納得しなかったのではないか。
いささか乱暴なまとめ方かもしれないが、キャンベル的な英雄譚が人びとの心をつかむ時代は、神話の時代から数千年以上を経て、ついに終わったのだ。
それよりも、フィンランドのサンナ・マリン氏が「家族の物語はないけれど気にしない」とこの物語の構造にとらわれずに前に進もうとする姿勢に、いまは多くの人たちが共感する。英雄譚に熱く心を燃やしたり感動の涙を流したりはしないが、SNSの「いいね!」ボタンを押すように軽く同意の気持ちを寄せるのである。
そう考えると、オルーク氏がジョーゼフ・キャンベル氏のファンで『神話の力』をまるで聖書のように読みながら、結局は大統領予備選から脱落していった、というのも時代の要請であるかに思える。
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21世紀になってから成人したサンナ・マリン氏やピート・ブティジェッジ氏は、いわゆるミレニアル世代と呼ばれる。彼らはもちろん冷戦も知らず、1989年の天安門事件のときも91年のソ連崩壊のときも、まだ10歳にもなっていなかった。つまり、彼らが物ごころついたのは、世界から物語が消滅し、資本主義という最終にして最強のシステムがすべての国や社会を支配しようとしていた時だったのだ。「セパレーション→イニシエーション→リターン」を基本とするジョーゼフ・キャンベル的な英雄譚が彼らにとってリアリティのないまさに“夢物語”でしかないのも、当然のことだろう。
しかしだからこそ、「家族の物語がない」と言うサンナ・マリン氏や、統一感のない政策のまま予備選レースを駆け抜けようとしているブティジェッジ氏に、私は期待もしてしまうのである。いや、彼らミレニアル世代にしか、この世界はもはや希望を持つことができないという気さえしている。彼らは、物語の外からやってきた人たちだ。
さて私たちの国・日本で頭角を現すミレニアル世代は、いったい誰なのであろうか。もうそういう人は社会に現れており、だいぶ上の世代である私が気づかないでいるだけなのだろうか。
自分に寄せられる過剰な期待の声を振り払うかのように、『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版)という本を2012年に出したのは、社会活動家の湯浅誠氏であった。しかしそれでも私は、『スター・ウォーズ』の物語の外からやってくるようなミレニアル世代のヒロイン、ヒーローを待ちたいのである。そして残りの人生、そういう人を全力で応援し、盾にでも踏み台にでもなりたいと思っている。それが40年間かけて『スター・ウォーズ』全9作を見終わった、いまの私の新たな夢なのだ。