2019年12月20日の深夜、私は新宿の映画館の座席でひとりため息をつき、しばらく立ち上がることができなくなっていた。その日、世界同時公開された『スター・ウォーズ』シリーズの第9作にして完結編、『スカイウォーカーの夜明け』を見終えたのだ。
『スター・ウォーズ』の第1作、『新たなる希望』はアメリカで1977年、日本では翌78年に公開された。すでに『アメリカン・グラフィティ』で成功を収めていたジョージ・ルーカス監督が壮大な構想のもと、全9作のまったく新しい宇宙冒険物語を世に送り出すということで前評判も高かったが、公開されるとアメリカでは記録的な大ヒットとなり、社会現象にまでなって日本のニュースでも何度も取り上げられていた。
当時、高校生だった私と中学生だった弟は、もともと特撮怪獣映画が好きだったこともあり、日本公開を文字通り指折り数えて待った。そして公開されるや否や、ほとんど興奮状態で劇場に出かけたのだ。目の前のスクリーンで展開されたのは、辺境の惑星で農場を手伝っていたルーク・スカイウォーカー少年がちょっとした偶然からレイア姫のメッセージを手に入れてしまい、そこからジェダイの騎士としての自分の宿命と能力に気づいていく……というダイナミックな物語だった。さらに、敵の大将である黒仮面のダース・ベイダー、かわいいドロイド(ロボット)のR2-D2やC-3PO、大きなぬいぐるみのようなチューバッカ、闘う姫レイアなど、個性的なキャラクターや魅力的なクリーチャーが次から次に登場する。ジョン・ウィリアムズが作曲したテーマソングも一度聴けば忘れられないほど、シンプルでありながら荘厳だった。私たち姉弟はいっぺんでこの大宇宙の冒険物語に夢中になり、中学生でまだ英語もよくわからない弟は、劇場に何度か通ううち全編のセリフを丸暗記したほどだ。
その当時のことをつい数年前のように鮮やかに記憶しているのだが、私がはじめて『スター・ウォーズ』を見てから、昨年でなんと41年が経過したのだ。もちろん私は、第2作、第3作、と公開されるたびに映画館に足を運んでは、それぞれの作品を味わったり、そのときどきの自分の人生をそこに投影させて共感したり気持ちを奮い立たせたりしてきた。
2012年にはウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収し、ジョージ・ルーカス自身はそれまでの「製作総指揮」から「クリエイティブ顧問」へと立場を変えた。製作現場から退くということだ。
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2015年から公開が始まった最後の3部作は、「レイ」という女性が主人公の物語であった。レイは幼い頃に家族と生き別れになり、辺境の惑星で廃船から集めたクズ鉄を売って生計を立てている。砂漠の粗末な一軒家にひとりで住むレイは、ふだんは話す相手も笑顔になることもない孤独な生活を送っている。
40年前の第1作同様、もちろんレイは“ただ者”ではない。さまざまな偶然から自らが持つ能力や使命に目覚めるレイは、宇宙で暮らす民衆たちを帝国軍から守るジェダイの騎士のキーパーソンとして活躍しながら、次第に自分のルーツの秘密にも気づいていく……というのは、シリーズに共通したおなじみの展開だ。
そしてついに2019年、最終作となる第9作の公開となったのだが、公開前から評論家たちは意外なほどの厳しい評価をつけた。公開前日にAFP通信が報じた記事から引用しよう。(1)
クリスマスを前に一般公開が迫る『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け(Star Wars: The Rise of Skywalker)』は、人気SF映画「スター・ウォーズ」シリーズの完結編として納得のいく仕上がりが期待されていた。だが、すでに観賞した多くの批評家の間では、熱狂的なコアファン層にへつらい過ぎで独創性に欠けると不評だ。
鑑賞したファンたちからは、「退屈すぎる」「あれで終わり?」「レイがちっとも印象に残らない」と展開や結末などの“凡庸さ”を批判する声が多かったようだ。いずれにしても、第9作は多くの人にとって「期待はずれ」だったのだ。私が親しくしている『スター・ウォーズ』マニアのアメリカ人教師は、「スター・ウォーズだから仕方なく許せる、というレベル。レイにも感情移入できない」と残念そうに語っていた。
たしかに、レイは辺境の惑星を出てジェダイの騎士になってからも、いわゆる“愛想がない”。あまり笑わないし泣くこともしない。このシリーズではとても大切なものであるチームワークも重視せず、宇宙船で旅をしている仲間に告げずにひとりで敵の陣地に乗り込んでいったりする。また恋愛感情にとらわれることもないようで、わずかにそれらしきシーンもあるのだが、結局、恋は成就しない。
私自身がいちばん驚いたのは、なんといってもラストシーンであった。
41年前に見た第1作のラストでは、ミッションを果たしたルーク・スカイウォーカーらは、レイア姫から勲章を授けられ、民衆から拍手喝采を受けて笑顔を見せていた。高校生だった私も晴れがましい気持ちになったのを覚えている。
ところが、第9作のラストはそうではなかった。まだ見ていない人のために詳細を書くのは避けるが、レイは勲章などのほうびも、大群衆からの賞賛も、「これからはこの星の提督に」といった地位も、こういった物語にありがちな“王子様”のような配偶者も得ることはなく、ある意味で振り出しに戻るのである。しかしたったひとつ最初と違うのは、「自分は誰なのか」という問いへの答えは手にしていることだ。名字のない「レイ」ではなくて、いまの彼女はフルネームを名乗ることができる。とはいえ、そのためだけに厳しい訓練、命の危機を繰り返し経験するような戦闘、負傷や疲労などをくぐり抜けてきたのかと思うと、“対価”のあまりの少なさにめまいがする。
――レイよ、これでよかったのか。あなたはそこまでして、「自分とは誰か」を知りたかったのか。
私が映画館の座席から立ち上がれなくなったのは、エンドロールも終わったスクリーンに向けてこう問いかけていたからだ。
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『スター・ウォーズ』最終作を見た直後の12月22日、ウェブサイト「現代ビジネス」に、フィンランドのヘルシンキ大学で講師を務める岩竹美加子氏の「『私には家族の物語がない』フィンランド34歳女性首相、驚きの人生」という評論が掲載された。(2)
12月10日、34歳の若さで女性として初めてフィンランドの首相に就任したサンナ・マリン氏は、母親とそのパートナーである女性のもとで育った。いまはLGBTの家族はフィンランドでは公式に「レインボーファミリー」と呼ばれているそうだが、マリン氏が子どもの頃にはその名称もなく、「まっとうな家族と見なされていなかった」という。実の父親はアルコール依存症で養育費も支払わず、家計は苦しかった。アルバイトをしながらなんとか高校、大学へと進んだ。大学では地方行政学を勉強し、社会民主党の青少年組織に加わってから頭角を現したマリン氏は、あっという間に地方議員、国会議員へと階段を上っていく。記事にマリン氏の言葉が引用された箇所があった。