こうして考えると、『アメリカン・ユートピア』はまるごとデイヴィッド・バーンの「内なる変革」の物語だともいえる。
実は彼は昨年9月1日、SNSでひとつの謝罪を行った。1984年にトーキング・ヘッズのプロモーションビデオの中で、顔を黒や茶色に塗って有色人種に見せる、いわゆる「ブラック(ブラウン)フェイス」という演出を使ったことに対してだ。そのときの一連のツイートや各メディアによるインタビュー映像などはいまも閲覧可能だが、その中のひとつ、日本版『ローリングストーン』のサイトに今年の5月に掲載された記事から彼自身の言葉を紹介しよう(「デイヴィッド・バーンが語る『アメリカン・ユートピア』、トーキング・ヘッズと人生哲学」、2021年5月27日)。
「僕自身はあのことはすっかり忘れていてね。まずはこう思った。『なんてこった、これは酷いな。時代のいかに変わったことか。そして、僕自身もどれほど変わったものか』けれど、すぐにこう考えた。『よし、ならこいつは自分で引っ張り出してやることにしよう。大袈裟にするつもりはないが、でも自分から口に出すことで、自分の問題として受け止めるんだ。そしてみんなにも、僕が成長し、変わったことがわかってもらえるはずだと願おう』」
彼が住むアメリカの現実を見てみれば、『アメリカン・ユートピア』のショーが行われていた2019年当時はトランプ大統領が政権を握り、移民排斥、人種差別の放置などが進み、一部の富める人がどんどん資産を増やして格差は拡大するばかりであった。若いときのバーン氏なら、もしかしたらトランプ大統領や支持者を“愚民”と考え、「バカな人たちだ」とハナで笑いながら、自分は現代音楽から民族音楽までの膨大な知識を生かし、ますますマニアックな音楽作りに励んだのではないか。いや、本当はいまでもそうしたいのかもしれない。
しかし、いつの頃からか、「これでよいのだろうか」という自問が始まったのだろう。そして、自然と社会に対して批判も含めた主張をするようになったというよりは、「内なる変革が必要だ」と考えて、かなり意識的にそうするようになったのではないだろうか。作品を見ていても、人ぎらい、感情の抑制、センスのよさや知的であることへの異様なこだわりなど、その本質は昔と変わっていないことがわかるからだ。
デイヴィッド・バーンが自ら強引に「内なる変革」を行い、おずおずと正論を語りながら歌い、踊ったショーは、スパイク・リーの手でとても力強くかつチャーミングな映画に仕上がった。そしてそれがいま、日本でもヒットしているというのは、ひとつの希望ではないだろうか。さらに言えば、これは前半で述べたような、すべてを相対化し、対象と距離を置き、怒りを抑制して冷笑的な態度を取るという“ポストモダンしぐさ”から脱却し、さらに新たなクリエイションで人びとにメッセージを与えることは可能である、ということを示す、壮大な試みにもなっていると思うのだ。
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クリエイターの解任、辞任が相次いだ東京オリンピックの開会式は、残念ながら「80年代、90年代サブカルはもう終わった」ということを示しただけで、それに替わる新しい文化を世に送り出すまでには至らなかった。
ただ、人権意識を置き去りにしたまま、センスがよい、おもしろい、クール、暑苦しくない、といった上っ面だけを追い続けても、ハラスメント、虐待、いじめ、差別による被害者は増え、世界の人権感覚からますます遅れを取るばかりだ。それでも声高に語るのは苦手だという人は、デイヴィッド・バーンのように、まず過去のあやまちを知った時点でそれを認め、謝罪することが必要だ。そして、自分が残してきた作品や道のりも含めて過去を全否定するのではなく、そこからおずおずと正論を語ってみればよい。
もし、それを行わないとどうなるか。かつてのサブカル・キッズたちもすでに50代から還暦にさしかかっている。いま人権や正義について語らないと、もう間に合わなくなり、「昔はよかった」と懐古的に自慢話をしながらどんどん世界から取り残され、みじめな晩節を送ることにもなりかねない。
世界は変わったのだ。差別やハラスメント、虐待はいかなる理由があろうとも許されない。人種的マイノリティ、先住民、その社会で生きる外国人、女性、子ども、障害や病気のある人、なんらかの事情で貧困な状態にある人などの社会的弱者に対してならばなおさらだ。もし差別、ハラスメント、虐待がまだ社会に残っているなら、あらゆる努力をして是正していくべきなのである。
サブカル・キッズもそれを受け止め、「オレたちの時代は終わった」などと腐ることなく、持ち前の知識や経験、才能などを十分にいまの社会、これからの社会のために発揮してほしいと思う。いまならまだ間に合う。私はそう思い、自分にも言い聞かせているのだ。
(※)
「スキゾ」とは、批評家の浅田彰が1984年に自著『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房)で提唱した概念。人間には、さまざまなことに興味を持つ「スキゾフレニー(分裂)型」の性格と、ひとつのことに集中する「パラノイア(偏執)型」の二つがあるとし、前者をスキゾ型、後者をパラノ型と略した。