容疑者は41歳、「仕事も金もなく人生に嫌気がさした」「(殺すのは)誰でもよかった」と供述しているという。いわゆる無差別殺人だ。
容疑者のくわしい生活歴などはまだ明らかにされていないが、結婚歴があり子どももいたが現在はひとり暮らしであること、山口県生まれで九州や関西などで職をいくつかかえていること、周囲の人たちは「おとなしい」「まじめそう」としか語らないところをみるとふだんから印象の薄い人であったらしいこと、などがうかがえる。わずかに公開されている写真を見てもまだ青年のひ弱さが残っている外見、態度で、「見るからに凶悪、残忍そう」といった感じからはほど遠い。
やりかけた仕事がうまくいかないとそれほどの努力や格闘もせずにフェイドアウトしてしまい、「なんとかなるさ」と思っているうちにどうにもならない局面がやってくる。そこで奮起するどころか自暴自棄になって、自分がやることの結果も考えずに、激情にまかせて犯行に突き進む。そしてその後、郷里の方に足を向けたということは、「なんとかしてくれ」と親に頼ろうとする気持ちもあったのだろうか。
いずれにしても、40歳を超えた“大人”とはとても思えない、衝動性、短絡的な思考、未熟な人格の持ち主であることは確かだ。比較するのは適当ではないかもしれないが、ゴルフの石川遼選手が17歳、国際的なコンテストで優勝したピアニストの辻井伸行さんが20歳であることを考えれば、「その2倍以上の年齢なのに」と怒りを通り越してあきれてしまう人もいるだろう。
しかし今、診察室で多くの人を診ていてつくづく思うのは、「年齢でその人の心や人格の発達を推測することはもはやできない」ということだ。また、その発達の仕方も一様ではなく、たとえば22歳の女性の心に、5歳の幼い子どものような部分と45歳の賢い主婦のような部分とが混在している、などということもめずらしくない。とはいえ、周囲からはその人は「22歳なりの精神的発達を遂げているはずの人」と見られてしまう。その見られ方と実際の内面とのギャップが、本人にとってはプレッシャーや「わかってもらえない」といういら立ちにつながることもある。
おそらく、今回の事件の容疑者も、心理的な発達のアンバランスさを抱えたままの41歳だったのだろう。郷里を離れ、職を転々としている中で同世代の仲間もできず、そのバランスの悪さを修正する機会もなかったのかもしれない。本人は問題が自分の側にあることも気づかずに、ずっと「なぜ仕事も家庭もうまくいかないのか?」と疑問に思いながら、次第に不満をうっ積させていったと思われる。
とはいえ、発達がアンバランスな人が増えていることと、これほどの身勝手な凶行とのあいだには、決定的な違いがあるのも事実。そのあたりについては、これからの取り調べがある程度、明らかにしてくれるだろう。
年齢相応の発達を遂げていない人。自分の中に子どもとおとなの部分がモザイク状に存在し、それらのバランスがうまく取れなくなっている人。彼らをどうやっていわゆる“年相応”の発達に導けばよいのか、それともその必要はなくて、社会の側が考え方を変えていくしかないのか、私たちは真剣に考えなくてはならない。首相自ら「愛読書はマンガ」と公言しているところを見ると、「心の成熟なんて関係ないよ」という意見のほうが多数派になりつつあるのだろうか。