熊本県の蒲島郁夫知事は、記者会見で「政治学者として述べる」と前置きして、かつてないほど政権交代の可能性が高まっていることを指摘し、「政党が力を出し切り、マニフェスト(政権公約)を競い合う王道の選挙を展開してほしい」と述べた。全国知事会は、各党のマニフェストを地方分権改革への取り組みに絞って点数化し公表することを決めており、先日、評価基準の配点内容も明らかにした。
日本で、このマニフェストが選挙で導入されたのは、2003年4月に行われた統一地方選挙においてだ。国政での導入は、05年11月の総選挙から。このときの選挙では、人々の関心はマニフェストよりもいわゆる“小泉劇場”に集中したが、「マニフェスト」は同年の流行語大賞も受賞している。
その後、07年の参院選を経て、マニフェストはそれなりに有権者にも浸透、内容の面でも進捗を見せているが、それらがどう政策に反映されたのかはいまだにはっきりしていない。マニフェストを読んで投票する政党、候補者を選んでも、そもそも政権じたいが目まぐるしく交代していては、何がどう実現したのかしないのか、判定するのもむずかしい状況だ。
そういう中、今回こそが本当の意味でマニフェストが機能する選挙になるのでは、という声も高い。政権交代が現実味を帯びてきて、各政党もかつてない緊張感の中で“きれいごとではないマニフェスト”を呈示せざるをえないだろう。冒頭に紹介した蒲島知事のように、正々堂々のマニフェスト選挙を期待する人も少なくないはずだ。
ただ、いくら政党がマニフェストで勝負しようとしても、有権者がその気にならないと「マニフェスト選挙」にはならない。もちろん有権者の側も、今回はそのつもりでいると思う。「なんとなく感じがいいから」といったイメージやマスコミが与える印象で投票する候補者を選んでいては、結局は自分たちがたいへんな目にあう、とわかったからだ。いや、これまでの選挙だってイメージで選んでいたわけではないはず、と思う人もいるかもしれないが、出口調査などで投票理由を問うと「人柄がよさそうだったので」という答えが毎回、上位になるのも事実。
とはいえ、今回の選挙は注目度が高いだけに、テレビや雑誌の報道量もますます増えるに違いない。それにネットも加わり、私たちは繰り返し各政党の党首たちの顔や声に接触することになる。現代人は、「文字を読み、考えて理解して判断する」というプロセスを経ずに、目にした映像や耳にした音声で「好き/きらい」を瞬間的に決定する、というやり方に慣れている。よし、今回こそはマニフェストを読んで考えよう、と思っていても、一瞬、目にしたテレビの映像で、「なんかこの人、感じいいな」と思ってしまい、結局はそれが投票行動につながる、という可能性も考えられる。
もちろん、テレビを消してマニフェストだけを読んで考える、などというのは非現実的だ。ただ、メディアから与えられる視覚的、聴覚的影響を抜きにマニフェストに向かい合うためには、それなりの意思と理性が必要、ということも忘れてはならない。いちばん避けたいのは、「マニフェスト選挙」が「実は違うのにマニフェストで決めた気になった選挙」になってしまうことだ。