計画開始以来、50年以上が経過しているとはいえ、工事はすでに半ばまで進んでいる。これまで計画を受け入れてきた住民は政府の決定に反発し、前原誠司国交相との話し合いにさえ応じようとしていない。
公共事業の中止に関するテレビのニュース番組の解説を見ていると、まず出てくるのは「お金」の問題だ。工事を進めればいくらかかる、中止にした場合の補償はいくら、そして発注を受けられなくなった地元業者の損失はこれくらい……。
しかし、これはやはり「お金の問題」ではなく、「心の問題」なのではないだろうか。
ダム建設や大きな道路建設の場合、それまでそこに住んでいた人たちは、当然、どこかに移住しなければならなくなる。場合によっては集落ごと、村ごとの移転が必要になることもあるだろう。
それは住民にとっては、たいへんな決断だ。たとえいくら補償がもらえようと、移住先で立派な家を建てられることになろうと、「住みなれた場所を離れたくない」という思いが強い人も多いはずだ。それでも住民が事業を受け入れたのは、「これは社会にぜひ必要な工事なのです」と説得されたからではないか。自分たちが移住することで、世の中に役立つダムや道路ができて、たくさんの人がその恩恵を受けることができる。「誰かの役に立てるなら」という気持ちが、最後の決め手になったと思う。
それがここに来て突然、「やっぱりダムや道路なんていらない」と言われ、むしろ「これこそ無駄の根源だ」とまで言われる。事業を受け入れることで誰かの役に立てる、と思っていた人たちにとっては、まさに青天の霹靂(へきれき)。そこで「話が違う」と抵抗するとさらに全国の人たちから非難される、という状況の中で、「あの決断、これまでの苦労は何だったのか」と自分たちの歴史や存在理由を否定されたような気になっている住民もいるだろう。
私は、ダムなどの事業の中止を決めるときには、まずは当初、事業を受け入れてくれた住民の決断を十分、尊重し、「あのときは必要なものだったが事態が変わった」と説明を尽くした上で、今度は中止を受け入れてくれることこそが彼らの尊厳を高めることをきちんと理解してもらう必要があったのではないか、と思う。住民だけではなく、工事などにかかわった業者への対応も同じだ。まずは、関係者の「心」への配慮が行われるべきなのだ。
これは、民主党が今後、マニフェストを政策として実行していく上で、常に必要になることだ。「マニフェストにこうありますので」と機械的に何かをしようとしても、その先には必ず心を持った人間がいる。そこで軽んじられたと感じる人、尊厳を否定されたような気持ちになる人が多く出るようなことが続けば、民主党政権は結局、長続きしないだろう。
今度の内閣には40代、50代を中心にしたフレッシュな顔ぶれがそろったが、若い彼らがどれくらい、一般の人たちの“心の痛み”に敏感でいられるか。それが新政権のいちばんの懸念材料だと私は考えている。はたして前原大臣に、「かつて事業計画を受け入れてくれてありがとう。そしてこのたび、中止を受け入れてくれて本当にありがとう。みなさんは二度、社会の役に立ったのです」という言葉が言えるだろうか。新政権は早くもヤマ場を迎えているのかもしれない。