仕分けじたいに法的拘束力はないとはいえ、これまで何年もかけて行ってきた事業について、「ハイ、ムダなので来年度は廃止」などと言われては、担当者や関係者はたまったものではないだろう。科学関連予算の削減が目立ったこともあって、ノーベル賞学者ら科学者たちが抗議の声明を発表したり、首相官邸に“直談判”に行ったり、といった事態にまで発展した。
もちろん、財政難の中、削るところは削り、本当に必要な事業に予算を優先的に回すようにするのは、あたりまえのことだ。とはいえ、「ムダを削る」と言った場合の「ムダ」とはいったい何か、という本質的な問題が誰にも説明されていない。
官邸に出かけたひとり、ノーベル物理学賞の小柴昌俊教授は、首相にこう説明したという。「我々の研究は社会の役には立たないが、人類の知識を増やすためにやっている」。すぐに利益を上げてかけたお金を回収できるわけでも、製品化されて多くの人に喜ばれたりするものでもないが、「人類の発展」には寄与している。稼ぎにならないからと言ってこれをムダと決めつけるのか、と研究者たちは忸怩(じくじ)たる思いなのだろう。
ここ10年あまり、アメリカに追従するようにして日本でも、効率の追求、ムダの排除が何より重要という方針で、経済中心の社会が作られてきた。「結果を出せ」が合言葉となり、売り上げに直結する仕事ができない社員は、いくら人柄が良くても会社に長いあいだ貢献していても、評価を下げられてリストラの対象となった。まさに「人間仕分け」が行われてきたのだ。
しかし、そういう利益優先社会の果てに、リーマン・ショックが起こって不況が訪れ、格差が広がって“ふつうの暮らし”さえ営めない人が増えた。うつ病に苦しむ人、自殺に追い込まれる人もいっこうに減らない。
かけたお金を回収できない、もうけをあげられないという人や商品を、すぐに「ムダ、何の役にも立たない」と切り捨ててはダメなのだ。そういう人やモノの価値を、もう一度、別の角度から見直してみる必要があるのではないか。今年の選挙では、そんな反省に基づいて政権交代が行われたはずだ。国会の初の所信表明演説でも、鳩山首相は「人間のための経済を」と訴えた。
ところが、事業仕分けで検討されているのは、対費用効果や投資分の回収がメイン。結果的には「もうけが出ないものはムダ」ということになったから、科学関連事業なども削られることになったのだろう。仕分け人たちは、「いや、そうではなくて、常識で考えてあまりに多額の予算が投じられているものをムダと考えている」などと言うかもしれないが、そのムダの定義、基準は結局あいまいなままだった。
すぐに役に立たないもの、利益を上げられないものは、それだけでムダと言われるのか。だとしたらやっぱり、バリバリ働いて売り上げをどんどん上げられない人も、ムダということになるのか。「人類の知識を増やすため」という小柴氏の言い分に、どれくらいの人が「よし、乗った」と賛同できるか。事業仕分けにより、私たちそれぞれの価値観が問われている。これから、その結果を政府がどう判断するかに、注目したい。