しかし、こういったいわゆる脳ブームの過熱に、専門家からもその影響を憂慮する声が上がっている。脳研究者の集まりである日本神経科学学会は、このほど研究の指針を改訂するとともに、学会としての声明を発表した。そこにはこんな言葉が記されている。
「脳の働きについて、一般社会に不正確あるいは拡大解釈的な情報が広がり、科学的には認められない俗説を生じたり、あるいは脳科学の信頼性に対する疑念を生じたりする危険性が増大している」
声明は、こういった俗説を「神経神話」と呼び、研究者が一般向けの書籍を出す際、また公開講演会などを行う際には、「研究成果が正しく伝わり、擬似脳科学あるいはいわゆる『神経神話』が生じないよう、成果を社会がどのように受け取るのかを考慮したうえ研究結果を発表することが重要」としている。
この「神経神話」は、「脳神話」と言い換えることもできる。実は、冒頭にあげた「0歳のうちに脳を鍛えておけば、数学や語学の天才になるんだって!」というのもそのひとつ。ほかには「左脳人間と右脳人間とがいる」「私たちはわずか脳全体の7%しか使っていない」「ビタミン入りジュースが脳に効く」なども、それを信じていた人には申し訳ないが、脳神話と言ってもよい。現在の脳科学で明らかになっていることで、私たちの日常にすぐに役立つものは意外なほど少ないのだ。
診察室で見ていると、不思議なことに日常の人間関係などにおいてはやたらと疑い深い人ほど、「脳科学では~だそうですよ」などと簡単にかなり怪しげな脳神話を素直に信じ、その“教え”を守ってせっせとパズルを解いたり特定の食品を食べたりしている傾向がある。また、精神科から処方される薬には抵抗を示す人が、「脳科学者が勧める“脳に効く音楽”」のCDを買い込んだりしていた、というケースもあった。「精神医学も、大きな意味では神経科学、つまり脳科学なんですよ」と説明しても、聞き入れないのだ。
このように、いまの私たちにとって、脳ほどわからないもの、そして重要なもの、さらに可能性に満ちているものはないようだ。「これは脳によい」「あれは脳に悪い」「最新の脳科学によれば」と言われた途端、それ以上、「本当だろうか」「科学的に裏づけがあるんだろうか」と疑うことをやめて、一も二もなく信用してしまう。まさに“神なき時代の神”、それが脳ということなのだろう。
しかし、対象が何であるにせよ、何かひとつのことを絶対的に信頼し、思考停止に陥ってしまうのは、いろいろな意味で危険なことであるのは間違いない。「すべては脳のため」と0歳児にまで過剰な学習を強いたりするのは、誰の目から見ても尋常なことではない。
そして、いまは「脳、脳」と言っている人たちも、また時代が変わると次の何かに興味が移るものと思われる。そのたびに振り回され、お金や時間をつぎ込まされるのはつまらないこと、とそろそろ気づくべきなのではないだろうか。もちろん、研究者たちにも「一般の人にもわかりやすく伝えること」と「サービス過剰になること」とのあいだに、きちんと一線を引いてもらいたいと願う。