興味深いのは、暴行事件が明るみに出てから、「さらば朝青龍」などと引退を想定したような報道を続けていたマスコミまでが、「驚いた」「衝撃が走った」と報じたり「残念です」といったファンの声を取り上げたり。「今度ばかりは許されない」などと言って正義の鉄槌(てっつい)を振り上げていた人たちも、もしかすると「まさか引退することはなかろう、せいぜい何場所か出場停止か、親方ともども陳謝しておしまいか…」とどこかで高をくくっていたのであろうか。
朝青龍は、引退表明前後のこの世間やマスコミの変貌(へんぼう)ぶりを見て、どう思っているだろう。やめてほしかったのか、そうじゃなかったのか、いったいどっちだったんだ、と若干の憤りを感じているかもしれない。
そういえば、ボクシングの亀田一家をめぐっても、似たような騒動があった。相手選手への挑発的な行為や、セコンドについていた父親の暴言に対して、「ボクシング界を去るべきだ」など厳しい声も多かった。ところが、時間がたつにつれて世間の怒りはいつのまにか消え、最近では三兄弟でバラエティー番組に出たりと、また人気者になっている。自分たちが再び受け入れられたことに安堵しながらも、支持、バッシング、そしてまた支持という繰り返しに、彼らは心のどこかでマスコミや世間に不信感を持っているのではないだろうか。同時に、「あのとき、引退なんかせずにじっと耐えてよかった」とも思っているだろう。
もちろん、人というのはいつの時代も移り気なものなので、ヒーローが突然、毛嫌いの対象に、といったことは、これまでも芸能界、スポーツ界、そして政界で何度となく起きてきた。期待が高い相手であればあるほど、それが裏切られたときのファンの怒りは大きい。まさに「かわいさあまって憎さ百倍」とばかりに、非難したり攻撃したりすることもある。
アメリカでは、オバマ大統領の支持率が急下降、訪問先で集まった市民たちから罵声(ばせい)が浴びせかけられることもある、という。1年前の就任時の熱狂からは考えられないような光景だ。これもまた、「期待が大きかっただけに失望も大きい」ということなのだろう。
しかし、ちょっと考えればわかることだが、「オバマ氏はダメだ」という声が高まり、たとえ大統領を失脚に追い込んだとしても、事態がよくなることはない。最善の策は、なんとか最初の期待に応えてくれるよう、軌道修正をしてもらうことのはずだ。
朝青龍に対しては、どうだったのだろう。軌道修正ならもう何度も期待したけれど、今度ばかりは堪忍袋の緒が切れた、ということなのか。それとも、たしかに世間の心情は「許せない」だったけれど、それが何らかの力を持って本当に本人に引退を決意させることなどあるはずない、とみな思っていたのか。
ひとりひとりの声は小さくても、それらが集まれば、実際に誰かを動かしたり政治を変えたりすることもある。それこそが「世論」というものだ。世論はただのゴシップ、うわさ話ではなく、ひとりの横綱に引退を決意させるほどの力を持つ、ということだ。
だから、政治家たちもさかんに世論の動きを気にする。「私のような一市民がああだこうだ言っても、何かが変わるわけじゃなし」と思って無責任なことを口にしていると、いつかもっと大きなことで「いや、そんなつもりで言ったわけじゃなかったのに」というできごとが起きて、取り返しがつかないことにもなりかねない。
世論の力と世論の恐さ。民主党の小沢幹事長と並んで、それを最近いちばん感じたのは、やはり朝青龍だったのではないだろうか。