この問題を伝えるテレビのニュースなどでは、最後に必ずといってよいほど、キャスターがこう言う。
「沖縄の基地問題にまず私たちも関心を持つこと、そこから始めなければなりません」
沖縄の人たちにしてみれば「なにを今さら」とあきれるだろうが、現実的には沖縄県民以外の認識はそのレベルかもしれない。かくいう私も、あるシンポジウムで「いまの日本は何だかんだ言っても戦争状態にあるわけではなく、平和が保たれているわけで」と発言してしまい、沖縄からやって来た観客から「沖縄のことをまったく考えていない。普天間の住民は毎日、爆音を上げて低空飛行する戦闘機におびえながら暮らしている」とおしかりを受けたことがあった。本当にその通り、と反省した。
それにしても、私自身、基地問題には関心があったはずなのに、なぜそれを忘れているかのような発言をしてしまったのか。そこには、人間のある心理メカニズムが関係していると思う。
このコラムでも何度か取り上げたことがあるが、人間には「これは真正面から考えるとかなりむずかしいな」という問題を意識から切り離してしまう、“解離”という心のメカニズムが備わっている。解離されたできごとや葛藤(かっとう)は、本人の記憶から表面上は抹殺される。
解離は決して“逃げ”のためにわざと行うのではない。この問題は自分にとって荷が重すぎる、と心が判断したときに、一種の自己防衛手段として無意識的に行われるのだ。そう考えると、日本社会が一種の解離を起こして、自分たちではとても対処しきれないこの基地問題を意識や記憶から切り離そうとしているかのようにも見える。もちろん、シンポジウムのときの私にしてもそうだ。
これはただの想像なのだが、もし基地が本州のどこか、あるいは東京、大阪などから近い島にあったなら、解離のメカニズムを作動させようにも、いつも目に入ってしまうのでなかなかそうできない。それが、沖縄という地理的にも日本の南端にある島であれば、比較的、簡単に解離させやすい。私の知人の中には、基地問題に関心を持ちながらも「それはそれ」と言ってバカンスで沖縄に出かけ、何も考えずに楽しく遊んでくる、というパターンも少なくない。彼らも、沖縄に遊びに行くときには、基地問題をきれいに解離させてしまっているのだろう。
そのように、地理的にだけではなく心理的に切り離されている沖縄の基地問題を、ここで自分たちの現実に統合して考えるのは、キャスターたちが言うほど簡単ではない。しかし、「それはそれで」ではもうどうにもならない状態まで来てしまったことも事実。
まずは鳩山首相が沖縄に出かけ、これまでさまざまな問題がある中、「5月末までには」と時間的に解離してきた基地問題ととりあえずは直面した。やや遅きに失した感もあるが、ここで首相は「これは私たちみんなの問題だ」と力強く、閣僚や民主党の議員たち、一般の人々に解離の終了と統合を呼びかけることができるか、にかかっている。「まあ、あとはアメリカとの交渉でなんとか落とし所を」といった表面的なやり方では、今回はどうにかクリアできたように見えても、また何年か後にまったく同じ問題が回帰してくる。
日本の高校生は修学旅行などで全員、沖縄の基地を見てくる、くらいのことをしてきてもよかったのに、と思うが、それも「今さら何を」と言われそうだ。解離のメカニズムでは、問題は解決しない。このことがはっきりしたと言ってよい。