では、医療現場で虐待の有無を見分けることができるのだろうか。多くの地方で救急医療じたいが崩壊の危機にさらされている中、実際の現場で委員会を設置し、虐待があったかどうかについて議論を尽くして判断を下す、などというのはおよそ現実的でない。
また、子どもの場合、あらかじめ「本人の意思」を確認できないことが多く、「家族の同意」が決め手となる。そのときは親が「わが子の臓器がほかの人のからだで生き続けるなら」と提供を望んでも、後になって「本当によかったのか」と悩み苦しむこともあると考えられる。
実は今回の法改正では、大人でも事前の意思表示が不明確な場合、家族の同意により臓器提供が可能となった。だから、同意した家族が後々、悩んだり自分を責めたりするというのは、提供者が大人の場合でも十分、考えられる。逆に、提供を拒んだ家族も、同様に「やっぱりそうしたほうがよかったのでは」と悩むかもしれない。
「家族が脳死状態に陥り、その臓器を移植する」というのは、誰にとっても想定外のできごとだ。確率的にも、もちろんそうそう起きることではない。しかし、ある日、そういった事態が訪れ、これは現実なのか夢なのかと混乱しつつ、短時間のうちに判断を下さなければならない、という場面がやって来ることがある。
突然のクモ膜下出血で脳死状態に陥り、一時は臓器提供も検討されたが、いろいろな条件から移植には至らなかった男性の妻が、その後、私の診察室を訪れたことがあった。「あなたの本当の意思はどうだったの、あれでよかったのよね、と何度も遺影に語りかけていますが、答えはありません…」。自問自答の日々の中、疲れきった女性は、うつ状態になってしまったのである。「せめて生前、一般論としてでも、もっと移植について話し合っていればよかったのですが、それもほとんどなかったんです」
脳死状態になると、当然だが本人の意思は確認できない。今後、医学が進めば状況も変わるかもしれないが、現在のところは「本人の意思イコール意識があるときの意思」と定義している。家族としては、たとえ本人の意思がはっきりしていた場合でも、提供後は「でもやっぱり…」などと迷い、悩むであろう。そこで「これからの時代、臓器移植は必要だと思うよ」「たとえ子どもでも臓器が生かされるなら、本人も本望なんじゃないかな」など、それまで語られていた情報が多ければ多いほど、家族は「いや、あの人もよくこう言っていたし」とそれを思い出し、自分をその都度、納得させることができる。
つまり、日ごろから私たちは、移植医療や延命措置など「生と死」にまつわる問題について、少しでも多く話をしておく必要がある、ということだ。「そういえば妻はあんなことを言っていたっけ」といった記憶が、「だから本人もきっと満足だろう」と納得にかわり、遺された人たちを終わりのない迷いや悲しみから救うこともある。それは子どもの場合でも同様で、「いのちの教育」が大切という声が上がっているが、「子どもに不吉でむずかしい話は早い」と避けずに、そこにはぜひ「生と死」という問題も含めてほしい。
とはいえ、臓器移植はとくにこの日本では、まだまだ特殊な医療のひとつだ。家族に対して、たとえば海外で同様のケースを扱った経験があるカウンセラーなどがケアにあたる、といった配慮も必要だ。しかし、誰がそういったカウンセラーを紹介するか、ケアの費用は誰が負担するか、といった問題はほとんど手つかずのまま。本来は、改正法の施行とともにそこも整備すべきであったと思われる。