しかし、これでイラクからアメリカ軍が完全にいなくなったわけではない。実は、まだ5万人もの兵士と兵器がイラクには残っている、といわれている。撤退したのは、あくまで表向きに「戦闘部隊」と名乗っている部隊なのだ。
では、5万人もの駐留アメリカ軍兵士は、今後、何をするのか。軍は、今後の任務として「テロ対策、復興支援、イラク治安部隊の訓練」を挙げている。テロ対策ということは、そこで兵器が使われる可能性もおおいにある。テロの拡大が起きれば、イラク国内のアメリカ軍基地がまた戦闘態勢に入ることもあるかもしれない。「戦闘部隊の撤退は即、戦闘の終結を意味しない」というアメリカのメディアの声もあるが、これは決してただの“心配しすぎ”ではないのだ。
それにしてもこの件、日本でのメディアの扱いは非常に小さかった。読売新聞の社説の最後は、こんなことばで締めくくられている。「日本では、陸上自衛隊のサマワ撤収、空自の輸送任務終了とともに、イラクへの関心が薄れたように見える。国際社会は今後も、イラクの動向を注視していく必要がある」。まさにその通りなのだが、こういったことばもどこか中身のない“お決まりのフレーズ”に見えてしまうほど、社会の関心は低かった。
イラク問題に限らず、いま全般的に国際問題という、日本以外の地域で起きていることへの関心は低くなっているように思う。若者が留学しない、海外旅行しないなど、「視野がどんどん内向きになっている」と言われてからも久しい。
もちろん、その背景にある最大の理由は不況で、海外に出かけたり、自分が直接かかわっていない問題に目を向けたりする余裕がない、ということだろう。私が教鞭(きょうべん)を取る大学で、「旧ユーゴスラビア圏の社会情勢と映画」をテーマに卒業論文を書く予定の学生に「どう?進んでますか?」と声をかけたところ、「いつまでたっても就職が決まらなくて、クロアチアだとかセルビアだとか、とてもそんな気分じゃないですよ!」と声を荒げられたことがあった。「国際情勢だなんて、とてもそんな気分じゃない」というその学生のことばが、いまの日本社会の状況を端的に表しているのではないだろうか。
ただ、外に目が向かないのは、景気が悪いから、というだけではないだろう。診察室で診ていても、多くの人たちが社会とのかかわりの中でではなくて、「子どものころは親に愛されたのか」「なぜ生まれてきたのか」と視線をより過去へ、より自分の内面へと向けることで、自分が生きている意味を問おうとする姿勢が目立つ。中には、その問題を解決しないかぎりは、とても外に目を向けて何かをやる気にならない、という人もいる。
この本質的な内向き志向、未来ではなくて過去志向が、なぜ起きているのか。それは社会の成熟の果ての必然的な到達点なのか、それとも一過性の現象にしかすぎないのか。これは、実は世界で同時多発的に起きている重要な問題であり、海外の精神科医や教育関係者からも若者を中心とする「ひきこもり」や「うつ」などの“内向き型”の問題や疾患の急増が指摘されている。
イラクは日本からあまりに遠く、文化や宗教の違いもあり、そこで起きていることを考えてもよくわからない、というのは、私たちの内向き志向を正当化するための言い訳にしかすぎない。日本も当事者としてかかわったあのイラク戦争について、折に触れてしっかり考えてみることも、この閉塞状況を打開するためのきっかけのひとつになるかもしれない。アメリカ軍のイラク撤退についてスルーしてしまった私たちは、考えにくいことを考えるチャンスをまたひとつ失ったのではないだろうか。