「自民党政権が続いていたら、もっと毅然とした態度で対応したのに」という声も聞いたが、そうなのだろうか。
もう私たちの記憶からは薄れつつあるのだが、2004年、小泉純一郎政権時代にも中国人7人が尖閣諸島の魚釣島に不法上陸するという事件があった。首相であった小泉氏は、記者会見で「日中関係に悪影響を与えないよう大局的な判断をするよう指示した」と述べ、間もなく7人は中国に強制送還処分に。当時の安倍晋三幹事長らは送検を含むより強硬な措置を主張した、ともいわれるが、小泉首相が政治的判断を下した形となった。
その後、小泉氏の靖国神社参拝や日本の国連安全保障理事会常任理事国入りへの反対などが引き金となって、05年4月には北京や上海、広州などで大規模な反日デモが相次いだ。日本大使館などへの投石、日本料理店の焼き打ちと事態は深刻化しそうになったが、このときの動きはとりあえず“人民レベル”にとどまった。中国政府はデモなどを厳しく罰することはなかったものの、対日関係を修復する方向に動き、今回のように経済問題にまであれこれ影響が出ることはなかった。
もちろん、前回よりも今回のほうが直接、領土問題が絡んでいるとか、今回は公務執行妨害などでより悪質だとか、いろいろな違いはあろう。ただ、「自民党政権時代のほうが中国に対して厳しい態度を取っていたのが、民主党になって急に弱気になった」というのとは違うと思う。
たしかに、小泉元首相は毅然とはしていたかもしれないが、それは「大事にすることを避けて、早い段階で強制送還」という決定を毅然と行った、ということであった。今回はむしろ、政府の意向を断固として示せないうちに、逮捕、勾留、そしてその延長、とことが進んでしまい、いよいよ起訴かどうかという段階で、ようやく「ここは釈放で」ということで検察と政府の足並みがそろった、ということなのではないか。
このように、本来、「毅然とした態度を取ること」には、相手に対して妥協を許さないとか対抗措置を講じるといったことばかりではなく、「ここは両国のためにもことを荒立てないほうがよい、と毅然と決める」という選択も含まれていてよいはずだ。ところが、最近の論調ではなぜか、「毅然=厳罰に処したり相手の要求をいっさい無視したりすること」といった意味だけが強調されている気がする。
もともと日本では、「能ある鷹(たか)は爪を隠す」「負けるが勝ち」ということわざにもあるように、自力や自説をあまりアピールしすぎることなく、謙虚に振る舞うことでうまく場を調整する能力に長けた人が評価される、という文化的風土があった。それだと自己主張のアメリカ的な世界ではやっていけない、ということか、最近は「能ある鷹はさらに爪を光らせる」といった態度ばかりが「タフでかっこいい」と肯定されるようになってきた。もちろん、いつまでも謙虚なだけでは国際社会でやっていけないが、「毅然とは、絶対に相手を許さないこと」という一面的な考えだけではたしてよいのだろうか。「ものごとの一面しか見られないのは心に余裕がないということなのでは」という精神科医としての心配が、杞憂(きゆう)に終わることを祈りたい。