自分がやった、と名乗りをあげたのは、事件に直接はかかわってはいない40代の海上保安官。守秘義務違反などでの逮捕を視野に入れた事情聴取が行われていたが、映像は海上保安庁内で誰でも見られる状態であったことがわかってきて、逮捕は見送られる方針となった。本人は「政治的意図はなかった」とも話しており、大がかりな組織ぐるみの動きではなく、個人的に入手した映像データをマンガ喫茶から投稿したということらしい。
この映像流出問題の第一報を聞いたとき、世間はどう思っただろうか。「新しい形の情報テロか、何らかの組織による政治的なクーデターか」などと背後に“大きな物語”を感じた人もいたのではないだろうか。実際にそういった報道を行った新聞などもあった。ところが実際は、限りなく“個人の思いつき”に近い行為であったようだ。
まったく異なる問題ではあるが、検察の資料改ざん事件はどうだったのだろう、とつい考えてしまう。前田恒彦元検事も海上保安官と同世代。マスコミは検察という組織ぐるみの問題だとするが、本人はあくまで個人的な行動と主張しているようだ。どちらが本当なのかはもちろん取り調べが進まないとはっきりしないが、ビデオ流出の件を見ていると、「これも“個人の思いつき”というレベルかもしれない」と思えてくる。
本人たちは、それが国家を揺るがす大問題になることなど想像もせず、「ちょっとくらいやってもいいだろう」と比較的、気軽な気持ちで手をつけてしまう。また、ディスクに保存されたりネットにアップされたデータが、入手や改ざんを容易にしている、という“ハイテクの落とし穴”もそこには関係している。
これは、全国の大学で問題になっている学生たちのリポート、卒論などのネットからの剽窃(ひょうせつ)とも通じるものがある。学生たちは「盗作をしている」といった後ろめたさを感じることもなく、「せっかくここに使えるデータがあるのだから、ちょっとくらい使わせてもらっても許されるだろう。自分ひとりくらいならバレないだろう」というごく軽い気持ちで、コピーアンドペーストを行う。
そして、それが判明したときの留年、卒業延期、就職取り消しなどの深刻な結果に至って、はじめて自分がしたことの重大さに気づき、あ然とするのだ。かつて、卒論の剽窃がわかって卒業を取り消されそうになったある学生は、こう語っていた。「何回かマウスをクリックしてコピーしただけだったのに、一生が狂いそうになった。教授会で討議すると言われ、何が起きているのか、よくわからなかった」。自分が何をしているのかという重みを感じることもないままに、たいへんなことを行っていたのだ。
もちろん、学生と国家公務員である海上保安官、検事を同次元で考えることはできない。しかし、「何をしているのか、重みを感じられないままにやっている」「重大な結果を招くことが想像できない」という点に関しては、彼らは同じと言ってもよいのではないだろうか。
ある識者は、「これはゲームをやって育った世代の特徴」と言った。たしかに、検事らが10代のときにファミコンが誕生、彼らはゲームやコンピューターの発展とともに育った世代だ。ただ、それだけが彼らの軽さの原因と考えるのは無理がある。では、なぜ重大な結果も想像できず、思いつきだけで軽はずみな行動を取ってしまうのだろう。この問題については、また回を改めて考えてみたい。