私は大のゲーム好きだし、診察室でゲーム好きの患者さんにはその話題を使ってカウンセリングを行うこともあるのだが、オンラインゲームに対してはこれまで少しばかり距離を置いてきた。なんといってもプレーヤーの没入、集中の度合いが一般のゲームに比べて格段に高くなり、同時に負けたときの悔しさや攻撃されたときの心の傷つきも、何倍にも膨れ上がってしまうからだ。中には、「ゲームの仲間として仲良くやっていた人とチャットを始めたら、突然、批判されるようなことを言われて」と相手の豹変(ひょうへん)ぶりに戸惑う人もいる。とくに、うつ病などの傾向がある人は、ゲームに限らずネットでコミュニケーションする場合はちょっと注意が必要だろう。
先のシンポジウムの席でもそんな話をしたら、若手の研究者たちが「うーん」といった複雑な表情をした。そして、そのひとりがこんな発言をした。「ネットと距離を置け、と言われても、私たち世代にとってはネット利用が前提になってますから…」。とくにスマートフォンが登場してからは、現実ですごす時間よりもネット上つまりオンラインですごす時間が多いし、そのほうが自然という若者が増えているのだという。
ネットやケータイは、今や良い、悪いを論じるものではなく、「使うのが当然」という前提のもと、「ではどうつき合うのがより良いか」を考える段階に入っているのである。たしかに、今や70代でも4割がネットユーザーという時代。いまさら「ネットの是非」「ケータイの功罪」を考えても意味がないかもしれない。
とはいえ、いくら生活に密着したとしても、先にも述べたように、そこにはいくつもの問題がある。精神科医としていちばん気になるのは、「ネットで言われた言葉で、リアルな自分が傷つく」という問題だ。チャットやメールで傷ついたときに、それをネット内で完結させることができるなら良いが、その人は「ずっとあの言葉を引きずっていて」と訴えて現実の精神科診察室にまでやって来ることになるのだ。もし、ネットの中に「バーチャル精神科」があったとしても、やはりリアルなほうの診療所に足を運ぶだろう。
今回の大震災でも私たちは、「なんといってもいちばん大切なのは、現実の衣食住と身の安全」ということを学んだはずだ。いくらオンライン上で充実した時間をすごしていても、現実に食べるものや寝るところがなければ、やはり私たちはつらさ、苦しさを感じることになるのだ。
ネットがなければ生きられない。これは現代の人々の事実だろう。しかし、ネットだけでも生きられない、というのも真実。要はそのバランスが重要なのだが、そういった議論もないまま、技術はどんどん進歩し、現実さながらのオンラインゲーム世界が次々に誕生している。できたものは既成事実として認めていく、という態度を、どこかで私たちは見直して、必要ならば「ちょっと待った」とその進歩にストップをかける必要がある。
「あれ、なんだか原発の問題に似ているな」と思う人もいるかもしれないが、科学技術というのはどれも同じなのだろう。つまり進歩は必然だが、常に「これは人間を幸せにするか」という検証や見直しが必要、ということだ。