今度の総理誕生に関して、私がきわめて個人的に「これまでとは違うな」と思う点がひとつある。それは、今の時点でどの週刊誌、雑誌からも「今度の総理の精神分析を」といった取材の依頼がないことだ。もちろん、ほかの精神科医、心理学者はそのような取材を受けており、私のところにはたまたま来なかっただけかもしれない。ただ、いつもならひとつかふたつはそのような依頼があり、「新総理に病名をつけるとしたら?」「新しい総理の“心の闇”を語ってください」など、最初から国の新しいリーダーが何らかの心の病理を有している、と決めつけているかのような取材も少なくなかった。
「最初から病気だと決めつけるなんて失礼な」と思う人もいるだろうが、これにはそれなりに理由がある。これまで私たちの前には、一見、華やかさや力強さを持っているように見える総理や大臣が登場しては、途中でストレスから心身の調子を崩したり情緒不安定になったかのように迷走したり、とメンタル面の弱さを露呈してきたからだ。新しい人が登場するたびに、「今度の人はどうなのだろう? また突然、泣き出したり逆ギレしたりするんだろうか」などと、その“心の行く末”に関心を持ってしまったとしても致し方ないような気がする。
そんな中、野田佳彦氏は民主党の代表選挙を勝ち抜き、総理大臣に就任した。代表選では、知名度で前原誠司氏に負け、組織力で小沢派が推した海江田万里氏に負けていると言われていたが、最終的には一番、多くの票を集める結果となった。さらに、決選投票前の「私は金魚になれないどじょう」という演説には、「感動した」といった声も多かった。民主党内でも、あの演説で野田氏支持を決めた人が少なくないと言われる。民主党外の人たちにとっても「どじょう演説」は印象的で、出典とされる相田みつを氏の著作は大増刷となったり、早くも“どじょうTシャツ”や“どじょう定食”が作られたり、けっこうな人気ぶりだ。
野田総理はこれまで、決して目立つ政治家ではなかった。未来の政治エリートを集める松下政経塾出身とはいえ、“同窓”の前原氏、原口一博氏のようなスター性にもいまひとつ欠ける。
しかし、いま国民が求めていたのは、その「スター性のなさ」や「華やかさや力強さの不足」だったのではないだろうか。なぜなら、スター性や見かけの力強さが結果的に「メンタル面での弱さ、不安定さ」につながり、失態を演じる政治家をこれまで私たちはあまりに見すぎてきたからだ。私たちは「どじょう」に、地味さ、泥臭さとともに、「泥の中での安定性、ブレのなさ」を期待したい、と思っているのだろう。
もしかすると、アメリカもこの「どじょう総理」を興味津々で見守っているのではないか。アメリカも超新星のように登場した若きオバマ大統領に多大な期待を抱き、その失速に失望する、という道をたどっている。「草の根保守」への回帰も起きつつある。もし、ここで野田総理が意外な好投を見せることになったら、アメリカの次の大統領選にも間接的な影響を与えるのではないだろうか。
もちろん、メンタル面で安定していればそれでよし、ということはない。問題が山積みのこの日本社会でどういう政治手腕を発揮するか、重要なのはその中身のほうだ。とはいえ、まずはどっしり、しっかりしてもらわなければ、何も始まらないし何もできない。「精神科医が出る幕がないこと」が総理大臣の条件、というのはあまりにハードルが低すぎる気もするが、いまはそこから始めなければならない状況であることは間違いない。