しかし一方で、捜査を行う立場である警察のずさんな対応も大きく報じられた。「2011年のうちに」と心に決めた平田容疑者が12月31日にまず訪れたのは、大崎署。しかし、建物前に警官がいなかった、などの理由で計画を変更。次に公衆電話からオウム真理教事件関連情報を受け付けているフリーダイヤルに電話したが、こちらは話し中でつながらず、断念したという。
やむなく110番して「平田信は大崎署の手配ですか」と尋ね、「警視庁です」と言われた同容疑者は、霞が関の警視庁本部へ向かったが、玄関前の機動隊員に出頭を告げると、「警察署に行ってください」と“門前払い”されたというのだ。さらに、機動隊員の指示通りに向かった丸の内署でも、入り口で女性警察官に「うそでしょう」となかなか信じてもらえず、身長などを示してようやく身柄確保に至ったのは、年が変わる10分前だったそうだ。
あやうく「年内のうちに」という同容疑者の“思い”が遂げられなくなるところであった。というより、途中で「信じてもらえないなら出頭をやめておこう」と気持ちを変えなかったほうが、不思議なくらいだ。
それにしても、なぜそこまでされても、「ぜひ出頭しよう」と思ったのか。接見の弁護士には、「3月11日の東日本大震災で不条理なことを多く見てきて、自身の立場を改めて考え直した」と語っていると伝えられている。教祖であった麻原彰晃こと松本智津夫への信仰心はすでになく、持ち歩いていた写真も5年前に捨てた、と語っている。
もし、信仰を捨てたという言葉が本当ならば、平田容疑者は大義も失い、ただ「逃亡のために生きる」といった生活を送っていたはずだ。おそらくそれはそれなりに緊張感もあり、ある意味での充実感が感じられるような生活であっただろう。「今月も無事に逃げおおせた」「今年もなんとか終わった」と毎日を生き延びることじたいに、強い意味が生まれてくるからだ。そこが、「毎日をただ生きるなんてつまらない」とつい思ってしまう私たちとは、おおいに違う。
しかし、震災が起きてその「一日でも長く逃亡する」という生活に、同容疑者はふと疑問を抱いたに違いない。「家族を養う」「地域社会のために尽くす」というもっと明確な目的のために生きてきた人たちが、一瞬のあの震災や津波で命や生活を失ってしまったのだ。それを見ていて、ただ逃亡記録を延ばすためだけにあるような自分の生活に、はじめて強い罪の意識を感じたに違いない。
思い起こせば、平田容疑者ならずとも、私たちも昨年は自分の人生を見直し、「漫然と暮らしていたのではないか」「有限だということを忘れていたのでは」とそれぞれが反省したはずだ。だとしたら、逃亡生活を送りながらも、同容疑者は私たちと通じるところのある“人の心”を忘れなかった、ということだろうか。これからの取り調べで明らかにされるその生活、心の移り変わりに注目したい。