しかし、「SNS疲れ」でまいっているのは企業だけではない。学生の期末レポートで「若者の“生きづらさ”について原因を分析せよ」といった課題を与えると、いつもおよそ半数の学生がケータイ、ネットの問題をあげる。とくに今年は、そのほとんどがSNSに言及していた。今やSNSは学生にとっては必要不可欠なメディアであると同時に、彼らの時間と心のエネルギーを大量に消費し尽くすやっかいなものとなってもいるようだ。
では、どんなことで「SNS疲れ」を感じるのか。「つぶやき手(書き手)」の立場のときと、「読み手」の立場のときとでは、それが大きく異なる。
たとえば、何人かの学生は、レポートに「“いま電車にカワイイ子がいる”とツイッターでつぶやいたところ、恋人にそれを読まれて誤解され、結局は別れにつながった」といった自らの経験を書いてくれた。彼らの多くは、何気なく書き込んだことを、見る側が深読みしたり曲解したりしたことがトラブルに発展した、もっとあっさり受け流してほしい、と述べている。
しかし、いったん「読み手」の側にまわると、とたんにそんな彼らも深読み、ウラ読みを始めてしまうのだ。「友だちと会った夜、その子が“今日はしんどい日だった”とつぶやいた。それって私と会ったから? と異常に気になった」「恋人が自分のことを書き込んでも気になるし、まったく自分のことに触れないつぶやきばかり続けるのも、無視された気になる」などと、SNSの短いフレーズをああでもない、こうでもない、と考えてしまった経験を書いている学生も少なくなかった。
また、SNSは「人とつながれるツール」と言われるが、そのつながりはしばしば「監視」「束縛」にもなってしまう。とくにスマートフォンができてからは、出先でも気軽にツイッターやフェイスブックへの書き込み、チェックが可能になった。そうなると「大学に着いたところ」「部活の飲み会で大盛り上がり」などと、常に自分の様子を“実況”するのが義務のように感じてしまう人もいる。そうしないと、同席者などから後で「昨日はどうしてつぶやかなかったの? 楽しくなかったから? それとも知られたくない人がいるの?」などと余計な深読みを誘ってしまう。
周囲の人たちも同じように“実況”を続けるので、今度はそれを逐一チェックしなければならない、という“義務”も生じる。そしてただチェックして受け流すだけではなく、「あいつは多忙だ」「恋人とはもうダメなのか」など、そのつど劣等感や優越感に襲われる人もいる。しかも、一度も会ったことのない人の日常までが丸わかりになり、比較の対象になってしまうこともあるようだ。
こんな繰り返しで、心のエネルギーがすっかりすり減る。それが若者の「SNS疲れ」だ。
「気軽さ」「ゆるさ」がウリのはずのSNSを深く濃く、さらに律儀に使いすぎるあまり、ヘトヘトに消耗してしまう。そんな若者を見ているとなんだか気の毒になり、あまりにも凡庸なひとことを“つぶやき”たくなってしまう。「いったん止めてみたらいいんじゃないの?」”