国内のマスコミでは、この日本人被害者の実名報道をめぐって議論が起きた。テロに巻き込まれた人たちが属していた企業は、家族らの感情に配慮して、犠牲者、生還した人ともに氏名を公表しなかった。政府も当初はその意向を踏まえていたのだが、事件の社会的な重大性を考慮して、犠牲者の遺体が日本に到着後、氏名の公表に踏み切ったのだ。
プライバシー保護か、社会的な重大性の優先か。実はこれは、医学の世界では昔からしばしば問題になってきたところだ。とくに私がかかわっている精神医学では、少数の症例について詳細に記述する「症例報告」という形式の研究が行われることがある。そこでは、たとえばその患者さんの家族構成や学校、職場での具体的なエピソードが病の原因や症状と直接、かかわっていることも少なくない。
しかし、現在、医学の研究では、まず「ヘルシンキ宣言」を踏まえていることが絶対の条件となっている。ヘルシンキ宣言とは、ナチスの人体実験の反省から生まれた医学者のための倫理規範で、1964年、世界医師会で採択された後、何度も改訂されながら現在に至っている。この宣言の基本は「患者・被験者福利の尊重」であり、それに基づいてそれぞれの医学会では具体的に、「本人や家族に研究やその発表の同意を得ること」「本人と同定されないために匿名性への配慮が十分、行われること」「研究の前に病院や大学内の倫理審査委員会での承認を受けること」といった研究や発表の条件がもうけられている。
先にも述べたように、精神医学の研究、とくに症例報告を行おうとする場合、この規定を守るのが時としてむずかしいことがある。「匿名性への配慮」を優先するあまり、最も重要な箇所をあいまいに記述せざるをえなくなることもあるし、本人に「あなたについての研究を論文にしていいですか」と同意を得ようとしても許可が得られないことも少なくない。その前に、病院内の倫理審査委員会で「患者さんにこれまでの生育過程について細かいアンケートを取るんですか? それは治療にプラスにならず、むしろ患者さんに負担になるのではないですか?」と研究への着手じたいが不許可になるケースもある。
もちろん、こういった倫理規定や審査は、どれほど厳しくても厳しすぎるということはないだろう。ただ、一方でそれによって「やっぱりプライバシーの時代に症例報告なんてムリなんだ」とあきらめては、医学の進歩もない。そうなると、その患者さん個人の個人情報や人権は守られても、研究によって救われるはずだった多くの他の人々の福利にはつながらないことになる。
どうやってそれぞれの患者さんへの不利益を最小限にしながら、医学の発展が停滞することのないように研究を進めていけばよいのか。多くの医学研究者が、いまそんなジレンマに直面し、おおいに悩んでいる。おそらくこれからは、報道関係者さらには政府も広い意味では同じような悩みにますます直面することになっていくだろう。もちろん答えは、「すべて公表すべき」でもなければ、「本人や家族が望まなければいっさい公表すべきではない」でもない。どこで折り合いをつけ、本人を傷つけることなく、社会全体のニーズにこたえ、多くの人たちに必要な情報を伝えていけばよいのか。結局は、医学の世界の「ヘルシンキ宣言」のような原則を決めておいて、あとはケースバイケースで考え、決めていくしかないのだろうか。