ただ、ぜひ注目してほしいのはその“書きぶり”だ。声明文は英語と日本語の両方で公表されているが、全体の筆致や選ばれている単語に配慮が尽くされているのだ。
タイトルからして、日本の歴史家への「支持(support)」となっており、「要求」「依頼」などではない。また冒頭のふたつの段落は、日本の歴史家への「賛意」や日本と近隣諸国の70年間の平和への「祝福」、また自分たちにとって日本は「第二の故郷」であることなどを述べるのに使われている。
その上で声明では、戦時において大勢の女性たちが「慰安婦」として「自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされ」、尊厳を奪われたというのは、歴史家たちによって発掘された資料や被害者、元兵士らによる証言で「歴史の事実」であることをはっきりした口調で伝える。
しかし、その直後には「過去の不正義を認めるのは、未だに難しい」として、抑留された日系人への賠償が遅れたりいまだに人種差別の問題が根深かったり、という自国アメリカの問題点もあえてさらすことで、日本だけを糾弾する意図はないことを再び強調するのだ。
一般論としてよく「アメリカ人は何でもイエス、ノーをはっきりさせ曖昧な表現は使わない」「日本人は対話でへりくだりすぎて自己主張が足りない」などと言われ、ディベート術、交渉術の本もよく売れている。とくにネットの世界では、歯に衣着せぬもの言いのほうが注目を集めやすいのか、自分と意見の異なる相手を名指しで激しく批判するブログで人気を集める地方議員などもいるようだ。ファンサービスで生活の一コマを公開したスポーツ選手のブログにののしりに近いコメントが殺到し、本人が「嫌いなら見なければいいのに」と困惑をこぼしたこともあった。
もちろん、そういった個人への反応と歴史問題に関する声明とを地続きで考えることはできないだろう。ただ、意見を伝える相手への配慮、思いやりが尽くされたこのアメリカ人研究者らによる文章を読みながら、「かつては私たちもこういう言葉や表現を使っていたのではないか」となつかしささえ感じた。
最近、テレビをつけるとどこの局でも日本を礼賛する番組を放映している。「自分たちのまわりにある日本の良さを再発見」というコンセプトじたいには否定すべき要素は何もないが、気になるのは他国と比べてその良さを強調したり、外国人ゲストに感想を尋ねて「すばらしい」と言ってもらったりする場面があることだ。自分たちも日本が大好き、外国人も日本が大好きで番組が終わり、そこには自分たちの問題点を客観的に見ようとしたり他国の良さも認めようとしたりする姿勢が見られない。
たしかに、何をきかれてもぼんやりしたほほ笑みで首をかしげるだけでは、自分の意見は相手に伝わらない。とはいえ、「私、私」と自分だけを強調し続けたり、相手をおとしめることで自分が優位に立とうとする激論型のコミュニケーションでは、結局、そのときの勝負がつくだけで、何の生産的な対話にもつながらないのではないか。
このアメリカ人研究者たちによる声明文、内容にはすぐに同意できない人も多いかもしれないが、「美しい日本語」のサンプルとして翻訳を国語の教科書に載せたらどうだろう、などと言うと、また「自国を卑しめている」と批判されるだろうか。また英語を学んでいる人たちにも、「英語でも謙遜の表現は可能だ」という例としてぜひ一読してもらいたいと思う。