フリースクールとは、主に学校になじめなかったりいじめや病気などで通えなかったりする子どもが、それぞれのペースで学べる場を指す。英才教育や受験のための自主学習の場は原則的に含まれない。
この議員連盟では、義務教育と認められる条件として「保護者が作成した学習計画を市町村教委が審査・認定すること」をあげている。またフリースクールにも行けない、あるいは近隣にない場合の家庭学習、義務教育を受ける機会がなかった人たちが学び直す夜間中学校なども今回の法案の対象に含まれている。もし法制化されれば、既存の小中学校と同じように何らかの財政的な支援も行われることになるだろう。
思えばここまでの道のりはあまりに長かった。現在も不登校の小中学生は全国に12万人ほどいると言われているが、1950年代には「学校ぎらい」、60年代から70年代にかけては「登校拒否」とも呼ばれていた。私が精神科医になった86年には「不登校」という名称も使われるようにはなっていたが、臨床の場でもまだ「登校拒否」という言葉が残り、あたかも本人が自分の意思で登校しようとしない状態、と誤解している精神科医も少なくなかった。個人的な話で恐縮だが、研修医をしていた大学病院の80年代前半のカルテを見返していたら、「学校に行こうとしない」と親が連れてきた小学生に対して、ベテラン精神科医が「学校には行かなきゃだめだ」などと専門家とは思えない“説教”を行っていた記録が多く残っていた。
そう考えると、こうした子どもたちが「本当は学校に行きたい」「行かなければならないとは十分わかっている」こと、また前の晩には「明日こそ行こう」と用意をして床につくのに朝になるとどうしてもからだが動かない場合もあることなど、その複雑な心理が広く理解されるようになったのは、80年代後半から90年代にかけてなのではないか。いや、もしかすると今でも、「不登校はただサボりたいだけ」などと思っている人もいるのかもしれない。
「学校に行きたいのに行けない」という子どもに対して、基本的に「行きなさい」と強要する、いわゆる登校刺激は効果的でないことがわかっている。例外的に小学校低学年でそれほどの理由もないのに何となく足が遠のいているケースなどは、先生が迎えに行って「みんな待ってるから行こうよ」などと誘い出すだけで学校に行けるようになることもあるが、それ以降の年齢になると本人自身もはっきりとは説明できない不安、恐怖などで登校できない場合がほとんどだ。
そういうときに「来たいときに来ればいいんだよ」「まずあなたがやれることからやってみよう」と個人のペースで学べる場を提供するフリースクールは、「勉強したい」「友だちとも話したい」と思っているのにできない子どもたちにとっては、まさに救いの場となる。もちろん、既存の学校でもある程度はそうすることも可能なのだが、学校の場合、他の子どもたちもおり、基本は集団生活なのでそうそう個別のプログラムを用意することはできない。
フリースクールや家庭学習を義務教育として認めると、ますます不登校の子どもが増えるのではないか、と危惧する声も一部の政治家からはあるようだが、その心配はない。それは先ほど述べたように、ほとんどの子どもは「行けるなら学校に行きたい」という思いは持っているからだ。ただ危惧されるのは、法制化され財政支援を受けるようになったら、それなりにきちんとした学びのカリキュラムを整えなければならない、など逆に自由度が減ることだ。
まずは、子どもたちに多様な学びの場が確保されるこの法案が無事、成立することを祈りたい。