岸井氏に関しては、2015年9月に放送された同番組で「(安保法案は憲法違反であり)メディアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」といった内容の発言したところ、作曲家すぎやまこういち氏や経済評論家の上念司氏らが呼びかけ人となった団体「放送法遵守を求める視聴者の会」が、「放送法に抵触する」として全国紙に意見広告を掲載。その後も、同会は報道番組を監視するとして募金活動などを行っている。今回の岸井氏の降板がその影響によるものかどうかはもちろん明らかにされていないが、内外からのプレッシャーがあったという話はあちこちで耳にした。
岸井氏の発言を批判する人たちは、放送法第4条が放送事業者に対して規定している「政治的に公平であること」などに抵触するとしている。ところが、法律の専門家らは、これは「放送による表現の自由を確保する」として公権力が放送へ介入して「放送の公平さ」を奪うことを禁じている放送法第1条、さらに「放送番組は(中略)何人からも干渉され、又は規律されることがない」とある第3条を踏まえた上での規定だとしている。つまり、まず公権力が放送事業者に不偏不党の立場から事実を報じる権利を保障し、その上で放送事業者に対しても「だからそちらも公平に」と求めている、と考えてよいだろう。
そもそも、メディアの重要な意義のひとつに、市民の側に立って公権力が暴走しないように監視するウォッチドッグ(番犬)機能があることはテレビの出現前から常識となっていたはずだ。それがここに来て、そのあたりまえの機能を果たそうとした瞬間に「法律違反だ」などと言われるようになったのだ。もちろん、民間人がそう発言するのは自由だが、少なくとも総務省などの管轄官庁は「放送法を持ち出して報道や言論の自由を規制するのは間違い」との見解を出すべきではないだろうか。
2016年の4月から「報道ステーション」や「NEWS23」は誰が進行することになるのだろうか。噂では、より中立的なジャーナリストつまり公権力に対して批判的なことをあまり口にしないような人材が候補にあがっていると聞く。「批判しない」ということはそのまま政府や与党の考えを受容し支持するという意味になるのだが、それはメディアが自ら「ウォッチドッグ機能を返上します」と敗北宣言をしているのに等しい。
テレビで報道に携わっている知人に、「そういう姿勢で悔しくないのか」と問いかけたことがあった。すると返ってきた言葉は、「たしかに情けないけれど自分にも家族がいるし、目立った主張をして目をつけられたくない」というものだった。もちろん放送業界といってもそこで仕事をしているのは“ふつうの人たち”で、それぞれに事情もあるのはわかる。しかし、そこで「自分ひとりくらいいいだろう」と自主規制することが、いつの間にか全体を萎縮させ、公権力が暴走しても誰も批判できない、という雰囲気を作ってしまう。
心理学は、人間は誰でもひとりで自分の考えを決めることはできず、「みんなはどう思っているのだろう」とまわりの顔色をうかがいながら、いちばん多数派の意見をさがして「私もこれです」とそこに乗ってしまう性質があると述べている。だからこそ、メディアは「自分たちが多数派の意見を形作る可能性がある」と自覚し、「右へならえ」にならないように自らを戒める必要があるのだ。『スター・ウォーズ』の新作には「フォースの覚醒」というサブタイトルがつけられ、多くの観客を集めている。「メディアの覚醒」はいつやって来るのだろう。