施設に勤務していた時代の処遇などに不満を持ち、その恨みによる犯行ではないか、という声もあるが、だとしたら職員なども攻撃の対象に加えるはずだ。また自暴自棄になっての無差別大量殺人事件と考える人もいるようだが、秋葉原の通り魔事件とは違い、今回は「誰でもよい」のではなくて明らかに障害者を狙っている。それらから、これはただの怨恨(えんこん)や無差別殺人ではなく、「障害者はいないほうがよい」という明確な意図に基づく犯行と考えるべきだ。
このように、社会的マイノリティーをその属性だけで差別、憎悪の対象として攻撃する犯罪を海外では「ヘイトクライム」と呼ぶ。これまで日本では、親族や地域住民など顔や名前を特定できる人たちを大量に殺害したケースや、先ほどの秋葉原のようにまったく無差別に通行人などを殺害するケースはあったが、「障害を持った人」など特定の属性を持ったマイノリティーを狙いうちにして無差別に殺害する「ヘイトクライム」は、わずかにホームレスを連続して狙う事件があったくらいなのではないか。
容疑者は、書状の中でいかに障害者は社会に不要であり、その存在のために家族や施設従業員が苦しんでいるかを綿々と書き綴っている。そして、彼らが嫌い、憎いといった感情によってではなく、社会をより良くするためにその排除が必要だと語り、その殺害計画を具体的に打ち明けているのである。容疑者にとっては、効率的に働き、生産性をあげて社会に貢献できる人間だけが生きる価値があり、そういう人たちだけで構成されている社会こそが健全と見なしているのだろう。
こういう発想は「優生思想」と呼ばれ、歴史の中でも繰り返し出現してきた。そして、それをそのまま実行したのがナチスである。ナチス時代、T4作戦の名のもとに、20万人ともいわれる精神、身体の障害を持つ人たちがガス室で虐殺されている。その作戦に手を貸したのは優秀な医学者や善良な臨床医たちであり、彼らはナチスを恐れてというよりは、「回復の見込みのない障害者は安楽死させたほうが、ドイツや彼らの家族のため、そして本人のためである」と本気で信じて、何のためらいもなく自分の担当している患者さんを選別してガス室に送ったのだ。
しかし、こういう蛮行を繰り返すたびに、私たち人間は心の底から反省し、「二度と命の選別はしてはいけない」「どんな命にも生きる権利がある」と自分たちに言い聞かせてここまで社会を生き延びさせてきた。ここに来て日本にも排外主義を堂々と主張する市民団体が登場し、なんとその代表的な団体の元会長が都知事選に立候補までしている。同質の人間だけで作られた社会は、一見、合理的で効率的に見えるが、多様性がないためにすぐに成長が止まり、いずれはその中でまた争いが起こって滅びていく。
それにしても、なぜ神奈川の青年は差別思想、排除の思想にここまで染まり、それを実行するに至ったのか。彼はどんな言論人の影響を受け、どんなメディアと接触していたのか。また、彼はごく特殊なケースなのか、それともいわゆる氷山の一角で、ほかにも同様の考え方を持った人たちは大勢いるのかどうか。そのあたりはこれからしっかり調べてもらいたい。
奪われた命は戻ってこないが、神奈川の静かな施設ですごしながら、懸命に日々を生きてきたのに無残な形で人生を終わらせることになった入居者たちの無念やそれを支えてきた家族、職員の衝撃を思うと、本当に胸が詰まる。二度とこのようなヘイトクライムが日本で起きないことを願うばかりである。