日本選手の活躍はうれしいが、とくにテレビや新聞などの報道でいくつか気になることがある。「日本選手団にひときわ大きな歓声」「ブラジル人も(日本を)応援」、これらは新聞の見出しや本文で目についた文言だが、テレビの中継でも時おりアナウンサーが「日本への声援がすごい」などと伝える。また、サッカーのスタジアムで日本サポーターがごみ拾いをしたことが報じられると、ネットでその情報が拡散され、「よいことだ」と評価されるだけではなく「他国ではありえない」「世界に見習ってもらいたい」などと次第に賞賛が過剰になっていく傾向がある。
この“日本礼賛”“世界が日本を尊敬している”といった空気は最近のテレビのバラエティー番組にも感じられるが、それが事実を大きく逸脱して伝えられるのは問題だ。さらに懸念されるのは、しばしばその延長で「日本のすばらしさに比べてあの国ときたら」と別の国やそこの人をけなしたりおとしめたりする場合があることだ。もちろん、自国の人たちの活躍や文化を誇らしく思うことはよいのだが、事実とは異なる幻想を共有してよい気分に浸っても意味はない。まして、他国を低く見るために日本のすばらしさを強調するのは、まさに本末転倒といえる。
そして、今回に限らないのだが、最近のオリンピック報道で気になるのが、メダリストへのインタビューで「家族への感謝」を引き出すような質問が目立つことだ。とくに選手が女性で既婚者の場合、「夫の協力」があってメダルが取れた、夫と二人三脚でオリンピックを目指した、といった“美談”が仕立てあげられることが多い。
この問題については、2016年7月に開かれた「日本スポーツとジェンダー学会」で飯田貴子・帝塚山学院大学名誉教授が「競技者のジェンダー化」というタイトルの発表で詳細に分析を行った。飯田名誉教授によると、とくに新聞記事の書き手が男性の場合、女性競技者の活躍を「夫の協力、サポート」と結びつけて報じる傾向があるという。もちろん、選手の活躍には家族の支えが不可欠だろうが、かといってそれがすべてであるはずもなく、成績はあくまで選手個人の努力の結果であろう。それにもかかわらず、インタビュアーが「この感動を誰に伝えたいですか」「ご主人が客席から応援しているのは見えました? なにかひとことどうぞ」などと、ことさらに「家族(あるいは夫、妻)あってこその自分」という話に持っていこうとするのにはやや違和感を覚える。
これは考えすぎかもしれないが、自由民主党の改憲草案の第24条はこれまでまったくなかった「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という家族に関する項目から始まる。つまり、「個人」が社会のベースにあるのではなくて、いちばん小さな「自然かつ基礎的な単位」は「家族」だというのだ。この考えに基づけば、たしかに個人として良い成績をあげたメダリストでも、「家族を代表してこの場に来ました」と答えるのが“正解”となるだろう。オリンピックはその正解を引き出すための練習の場なのだろうか。
こういったことをツイッターで「(もし)私が選手なら『家族は大切ですがメダルは個人として取りました』と言ってみたい」と短くコメントしたところ、「そんなことにまでケチをつけるな」「家族の愛情を知らない気の毒な人」といった内容の批判がいくつも寄せられた。
ともあれ、リオでは熱戦が続いている。私もスポーツ観戦は大好きなので、あまり政治的なことは考えずに素直に競技を楽しみたい。そして、日本選手はもちろん、すべての国の選手たちに、つらい練習の成果を存分に発揮してのびのびと競技してもらいたい、と心から思うのである。