一般的には平均して月45時間を超える残業が続いた場合、健康障害と業務との関連性が強まっていくとされており、とくに残業80時間超えで「過労死ライン」といわれる。それが100時間となると、月20日勤務として毎日5時間の残業の計算、会社を出るのは毎日深夜ということになる。それに休日出勤が重なると、さらに月の残業は120時間、150時間と増えていく。
こういう問題があると、「死ぬ前にどうして“できません”“もう辞めます”と言えないのか」という声が上がる。しかし、ある線を超えると、人間は自分が疲れているかどうかもわからなくなるのだ。また、こうやって仕事のためにがんばる人は、もともと「失感情症(アレキシサイミア)」と言って、「つらい」「しんどい」といった自分の感情を出さないタイプが多いとも言われる。
私も診察室でときどき、「この人、働きすぎで心配で」という家族に連れられてやって来る人を診ることがあるが、本人は「まだまだできる」「ほかの人はもっとやってる」と疲れを認めないことが多い。そういう人には「体重が減ってないか」「夜に何度も目が覚めないか」などと体調の問題から質問して、そこで少しでも変化があると認めたら、それを切り口に「ほら、それは疲れているサインなんです。あなたはたいへんなストレス状況にあるんですよ」と気づいてもらうきっかけとする。
また、雇用している会社側の問題もある。私はいくつかの民間企業の健康管理室で従業員の健康を守る「産業医」という業務をしてきたのだが、どの会社にもいまだに「長時間労働は美徳」と考えている管理職がいた。そういう人は、「自分が若い頃は毎日、朝まで働いた」と主張し、それを誇りにしている。しかし、その頃は携帯電話に縛られることもなく、日中、外出ができたり、メールもないのでオンとオフの切り替えができたり、何より求められる仕事の量がいまより少なかったり、と状況がいまとでは大きく違うのだ。そういう人たちに、「とにかく長時間労働は社員を不幸にし、それは結果的に会社全体にとってマイナス」と認識してもらうためにはたいへんな労力がいる。
一方で、従業員側にも逆に残業時間が少ないことを「情けない」「申し訳ない」と思う人がいる。定時で退社するのはごくあたりまえのことなのに、まわりがまだ働いていると帰れない、というのだ。これは日本式の「みんないっしょ」の同調圧力の結果だろう。「あなたは自分の仕事が終わっていたら、遠慮なく帰っていいのですよ」「あなたが帰ったら、ほかの人も帰りやすくなりますよ」と、かんで含めるように説明しなければならないこともしばしばだ。
仕事をしているからには思う存分働いて、会社や社会に貢献したい、と思うのは悪いことではない。しかし、精いっぱい働くことは「からだをこわしてまでがんばること」ではない。あくまで定時勤務の中で、自分なりに工夫して仕事をし、健康や家庭生活をきちんと維持して、はじめてその人は「自分らしく働いた」ということになるはずだ。
働くとは、定時まできちんと仕事をして帰る、ということ。自分の仕事が片づいたら、まわりに関係なく席を立つのは、当然の権利。
この認識が社会全体に広がらないかぎり、過労うつや過労死は減ることがないだろう。早急な改善が望まれる。