こんな感覚で物事が受け止められ、事象が語られる。そんな世相になっている。そのように思う場面が多くなっているように感じます。
竹島と尖閣諸島を巡る日韓・日中間の小競り合いには、もとより、「我らと彼ら」の対峙の構図がそのまま出ていますね。領土を巡る国と国との衝突ですから、これは当然だともいえるでしょう。ですが、こんなことでいいのかとも、つくづく思います。「我らと彼ら」の意識は、次第に「我らと奴ら」の感覚に転化して行きがちです。そうなることが怖い。
領土問題は、そもそも当初から「我らと奴ら」感覚を醸し出します。この敵愾心が高じて行くことの行く先に、何が横たわっているか。それは、誰もが良く知っている通りです。
領土という古来の観念を巡って、容易に「我らと彼ら」感覚がすぐさま前面に出るのは、さしあたりやむをえないかもしれません。ですが、最近気になるのは、領土というようなテーマとは次元の違うところでも、「我ら対彼ら」の構図で物を言う感覚が見受けられることです。
それを強く感じたのが、野田佳彦首相と反原発市民団体との対話実現に関する報道を読んだ時でした。いわゆる財界、あるいは経済団体の代表者たちは、市民団体を「彼ら」とみなして、無責任集団扱いする。市民団体側は、そうした産業人たちこそ、利益追求ばかりに汲々とする無神経集団だと心得て憤懣を燃やす。そんな有様が、報道の中から滲み出て来ました。
原発立地地域の住民たちと、反原発運動家たちとの関係もそうです。どうしても、「我らと彼ら」の脈絡の中で、売り言葉と買い言葉が飛び交うようになってしまう。
これは実に気掛かりなことです。我らであり、彼らである前に、我らはみんな我らです。誰もが等しく人間であり、同じような泣き笑いを背負って生きている。家族もいれば、友達もいる。眠くもなれば腹も減る。どんなに理不尽なことを言っているように聞こえる「彼ら」にも、「我ら」と同じ喜怒哀楽があり、大切な人間関係があるわけです。
それを忘れて、「彼ら」を「奴ら」とみなして目くじらを立て、牙を剥き合うようになれば、大変です。疑心暗鬼の中で、我らも彼らも、お互いに傷つけ合いと奪い合いに終始するようになって行く。ひたすら、勝ち負けばかりにこだわることになってしまいます。
グローバル時代という国境なく継ぎ目のない時代には、従来にもまして、我らも彼らもなくなって然るべきところでしょう。勝敗にこだわることには、大いなる醍醐味がある。それもまた確かです。ですが、それにしても、我らは結局のところみんな我らです。我らだけが人間で、彼らが魔物であるわけではありません。
しょせんは人間どうしの勝負であることを忘れると、そこから先は非人間的なつぶし合いの世界に踏み込んでしまう。それが気になる残暑の候です。