そのサッチャー語録の中に、次のようなのがあります。
「善きサマリア人は、善人だったから有名になったわけではない。彼は金持ちだったから世に名を残すことが出来た」
善きサマリア人は、『新約聖書』の中に登場する人物です。ご存じの方も多いでしょう。
ある旅人が追いはぎに襲われて身包み剥がれ、傷ついて路上に倒れています。立派な高僧や上流階級の人などが通りかかりますが、君子危うきに近寄らずとばかり、可哀想な旅人を見て見ぬふりをして立ち去ってしまうのです。
ところが、次に通りかかったサマリア人は、直ちに旅人を宿屋に連れて行き、至れり尽くせりの看病をします。しかも、自分が宿屋を出発するに当たっては、主にたっぷりおカネを渡して、ちゃんと面倒見てあげてくださいねと言い残します。
隣人とはかくあるべきものだ。イエス・キリストはそう言って、この例え話を締めくくります。彼の弟子たちはユダヤ人です。当時のユダヤ人にとって、サマリア人は軽蔑すべき人種でした。崇敬する我らの先生が、宿敵サマリア人をほめている。それに弟子たちはショックを受けます。
この話について、サッチャーさんがさきの独自解釈を語ったわけです。
彼女によれば、かのサマリア人はカネを持っていたからこそ、あそこまで手厚く不運の旅人の面倒をみることができた。つまり、彼には他人に分け与える富があったからこそ、善行を実現できたのであって、いくら善人でも先立つものが無ければ善行は施せない。従がって、我々もまた、善きことをするためにはまず金持ちになっておく必要がある。
これが彼女の解釈でした。
これを聞けば、「成長による富の創出」を叫び、「縮小均衡下の分配政策」を排する安倍晋三首相が、さぞや、我が意を得たりと大喜びするでしょう。確かに、それなりの理屈ではあります。ですが、この理屈は、やっぱり論理が転倒しています。
善きサマリア人の偉いところは、カネを持っていたことにあるのではありません。彼らの偉さは、持っていたカネを惜しげなく隣人に分け与えたところにあります。カネを持っていることが最も重要なら、哀れな旅人の前を素知らぬ顔で通り過ぎた人々の方が、このサマリア人よりも重要人物だったということになります。
しかしながら、彼らの富は分け与えられなかったが故に、この場面において何の役にも立っていません。
一つの経済社会において、いかに豊かな富が蓄積されていても、それが一握りの人々の手中に全て収まってしまっていたのでは、その富が十分な幸せと豊かさを生んでいるとはいえないでしょう。そのような状況は、全体最適だとはいえても、全員最適だとはいえない。
自由民主党の政権公約の中には、「全員参加型」経済という言い方も出て来ます。それを真剣に考えているのであれば、分配というテーマを決して避けては通れないはずです。