夏真っ盛りとなりました。「春はあけぼの、夏は化けもの」。化けもの界の帝王、水木しげる大先生がそうおっしゃっています(「妖怪画談」岩波書店刊)。
化けものにも色々あります。幽霊、妖怪、怪獣、死霊、生霊、怨霊等々々…。最近、この多様なりし化けものワールドの住人でありながら、経済の世界で何やら存在感を強めている存在があります。それはゾンビです。「ゾンビ企業」という言葉が、メディア上に頻々と出現するようになりました。
ゾンビ映画がお好きな方は、とてもたくさんおいでかと思います。ゾンビ・ムービーと言えば、何はさておき、ジョージ・ロメロ監督の「ゾンビ三部作」が金字塔としてそびえたっています。「Night of the Living Dead/ゾンビの誕生」、「Dawn of the Dead/ゾンビ」、「Day of the Dead/死霊のえじき」。その昔、少女時代の筆者は映画館で第一作の「Night of the Living Dead」の予告編に遭遇してしまいました。その後当分、その衝撃から立ち直れない日々を過ごしたものです。
ところで、第三作の「Day of the Dead」には、前出の通り「死霊のえじき」の邦題がついていますよね。ゾンビは果たして死霊でしょうか。死霊を辞書で引けば、「肉体から遊離した死者の霊魂」となっています。ゾンビたちのあの生々しい形相と、「霊魂」という言葉が筆者の中ではどうも結びつきません。「肉体から遊離した」というのもどうでしょうか。ゾンビたちのどこが肉体から遊離しているのか。肉体があの感じだからこそ、ゾンビは恐ろしいのではないのでしょうか。ゾンビ研究の大家(たいか)の皆さんに、是非、ご指導を仰ぎたいところです。
さてさて、話をゾンビ企業に戻さなければなりません。ゾンビ企業という言い方自体は、さほど新しいものではありません。1990年代、すなわち日本の「失われた10年」を通じて、巨額の銀行融資や政策支援を得ることでしか生きながらえることが出来なかった企業群に、ゾンビ企業の呼び名がつきました。ゾンビは、死んでいるはずなのに生きている。このイメージになぞらえて、本来であれば経営難に陥って淘汰(とうた)されていく企業、市場からの退場を余儀なくされているはずの企業をゾンビ企業と呼ぶようになったのです。その後も、折に触れて出没してきた表現です。
そして今、またしても、ゾンビ企業への言及が目につくようになりました。なぜこうなっているのか。それは、新型コロナ対応で経済活動が縮減する中、雇用維持目的で行われる企業への政策支援が増えているからです。日本で言えば、持続化給付金や雇用調整助成金などがこれに相当します。コロナのお蔭で、雇用機会がどんどん消失していくことは阻止しなければいけない。この観点から、企業に支援金が給付されるようになっています。
このやり方に対して、それがゾンビ企業の量産につながらないか、という指摘や論評がそちこちから湧き上がるようになってきました。重要な論点だとは思います。ゾンビがウジャウジャ徘徊しているような経済は、確かに健全な経済だとは言えないでしょう。ゾンビ企業が温存されることで、経済活動の新陳代謝が進まない。生き生きした経済活動の展開が阻止される。経済活動の生き血を吸うのがゾンビ企業の存在だ。こうした一連の指摘もごもっともではあります。
ただ、この調子でゾンビ企業という言葉が改めて市民権を確立し、どんどん独り歩きしていって大丈夫でしょうか。そういうことでいいのでしょうか。筆者は、少々気掛かりです。誰がゾンビなのかということを誰が決めるのか。ゾンビじゃないのに、「あそこはゾンビ企業だ」と誰かに決めつけられて、風評被害に泣く企業が出てきたりしないでしょうか。お互いにお互いを化けもの呼ばわりする前に、我々は細心の注意を払うことが必要だと思います。