バリアフリー化などによってAさんの通勤環境を良くする配慮を行えば、Aさんは1時間長く働けるかもしれません。そうすれば、Aさんにとっては、1時間分のお金だけではなく、好きな仕事をする〝自由〟や、安心して移動する〝自由〟も得られるかもしれないのです。そして、これはBさんにとっても良いことですよね。Bさんも将来車いすを使うかもしれませんし、子どもをベビーカーに乗せて出かけるかもしれません。Aさんの〝自由〟はまわりまわってBさんの〝自由〟につながるかもしれないのです。こんなふうに〝平等〟と〝自由〟が両立するのが、理想的ではないでしょうか。
〝平等〟を実現しようとする時は、それが様々な立場の人たちの〝自由〟につながるように工夫すると良い。逆に、〝みんな同じ〟という結果だけに満足してしまうと、その〝平等〟が誰かの〝自由〟を奪っている可能性に気づけなくなる……。そう思うと、つぎつぎに疑問が浮かんできます。たとえば、日本全国の学校がよく似た内容の教科書を使って授業していれば、誰もが〝平等〟に教育を受けられていると言えるのでしょうか。選挙で投票する権利さえ与えられていれば、誰もが政治にかんして〝平等〟だと言えるのでしょうか。どちらの場合にも、工夫する余地がまだまだたくさんある気がします。※1
AさんとBさんの例からわかるように、個人の〝自由〟を尊重しながら〝平等〟を実現するためには、それぞれの人がどんな〝不平等〟や〝不自由〟を感じながら暮らしているのかを、細かく考え、話し合って共有する必要があります。自分が他人と共に生きているこの社会について、広く深く調べる必要もありますよね。つまり、〝自由〟と両立する〝平等〟には、結果だけを同じにする〝平等〟とくらべて、多くの手間がかかるのです。その過程で、意見の対立も起こるかもしれません。
わたしの知っている範囲では、日本の人々はこうした手間を避けようとしがちです。その理由ですが、第二次世界大戦の後、日本全体が裕福になった高度経済成長期に原因があるのではないかという指摘があります。その頃に、国の「福祉政策」に任せていればじゅうぶん安心だという、サービスを受けるだけの〝お客さん〟のような態度を身につけてしまったために、日本人はみんなで話し合って物事を変えていく社会を作れなかったのではないか、というわけです。※2
さて、多くの人々が〝平等〟を実現しようと燃えていた明治時代にも、同じような問題はありました。内村さんも「一高不敬事件」という出来事に巻き込まれて、〝みんな同じ〟の欠点を痛感したのです。明治時代に戻りましょう。
怒りには二つのタイプがある?
内村さんはアメリカ留学から帰ってきて、いくつかの学校で先生の仕事をしました。そして1890(明治23)年に、東京の第一高等中学校(略して一高)の先生になります。一高は、国のリーダーを育てることを目的に作られた学校でした。生徒は新時代のエリートだったのです。
事件は翌年1月、教育勅語奉読式で起こりました。
教育勅語というのは、大日本帝国の教育についての基本の考えとして政府が国民に示した文章で、内村さんが一高の先生になったのと同じ年に、明治天皇睦仁(むつひと)によって発布されました。日本が大昔から天皇の「徳」の力によって治められていた国であることや、国民が心がけなければならない事柄が説明されています。※3
それを朗読する奉読式が、一高でも行われました。行事の中で、先生たちが順番に勅語の前に立ち、深々とお辞儀(これを最敬礼といいます)する場面がありました。教育勅語に最敬礼しなければならないのは、そこに書かれているのが天皇の署名入りのありがたい言葉だからです。ですが内村さんは、軽くしか頭を下げませんでした。
ところで、なぜ、全国の学校に教育勅語が配られたのでしょうか。
明治時代になり、新しい知識や産業の影響を受けて、これまでの武士中心のパワーバランスが崩れました。士農工商という職業による区別が曖昧になり、さらに、士農工商の外側の存在として差別されてきた穢多・非人という身分も廃止されます。どんな家や土地に生まれたかにかかわりなく自分たちは〝平等〟な日本人だ、という考え方がだんだん広がっていきました。※4
これは、明治政府にとっては都合の良いことでした。みんなが〝平等〟な国民としてまとまってくれれば、新たに作られた軍隊や工場の仕組みに協力してもらいやすくなるからです。でも、〝平等〟を求める主張がはげしくなってくると、人々の反抗心を恐れて、逆にそれを抑え込もうとしました。明治政府は、〝平等〟に政治を行うための国会を作ります、と約束しました。そうしておいて、国会が開かれるまでの期間に支配を強めたのです。天皇の土地と財産を増やしたり、学校での教育によって、国家に反抗しない国民を増やそうとしたりしました。そのためのアイテムが教育勅語だったのです。人々の、天皇にたいする尊敬を利用したのですね。
明治時代、ほとんどの人が天皇を心から尊敬し、生まれたばかりの自分の国を大切に思っていました。これは現在のわたしたちには理解しづらい感情ですね。「自由民権運動」という、明治政府に反抗する運動を行っていた人たちもそうでした。そしてそれはキリスト教徒も同じだったのです。
当時の日本のキリスト教徒には、親が武士だった人が多く含まれていました。本来キリスト教には、人間を神のように崇めてはならない、どんな人間も特別扱いしてはいけないという考え方があります。もちろん、天皇であってもそれはかわりません。しかし武士の子どもには、目上の人を敬い、一生懸命尽すべきだという、伝統的な武士の考えが受け継がれていました。殿様と家来の関係を思い浮かべてください。そのため、彼らの心の中で、神のもとですべての人間は〝平等〟だというイメージと、天皇のもとですべての人間は〝平等〟だというイメージが、すんなり重なりました。キリスト教を徹底的に追求した内村さんでさえ、明治天皇にたいしては特別な思いをもっていたのです。
※1
選挙の場合を考えてみます。ある人は政治について学び、情報を集めた上で、投票することができます。でも、べつの人は、学んだり情報を集めたりする時間やお金の余裕がどうしてもなくて、不十分な知識や情報しかない状態で投票するしかありません。この二人の一票は、ほんとうの意味で〝平等〟だと言えるでしょうか。投票にいたる過程まで〝平等〟になる工夫をして、やっとそれぞれの一票が〝平等〟になるのではないかと、わたしは考えます。
※2
ここまで〝平等〟について考えたことは、齋藤純一さんの『不平等を考える――政治理論入門』(ちくま新書)や、アマルティア・センさんの『不平等の再検討――潜在能力と自由』(岩波現代文庫)といった本を参考にしています。よければ読んでみてください。
※3
「大日本帝国」と書いたのは、当時の日本と、第二次世界大戦後の日本では、自分の国を呼ぶ呼び方(国号)が違うからです。当時はこのように呼びました。
また、教育勅語の文章はウィキペディアでも読むことができます。むずかしい言葉が使われていますが、中身はぼんやりしていて、はっきりした意味は読み取りづらいです。でもだからこそ、天皇と国家にたいする国民の忠誠心を持続させるための便利なツールとして、その都度色々な意味が盛り込まれて活用されました。とくに第二次世界大戦中がそうでした。
※4
キリスト教も、差別からの解放を求める人々のよりどころの一つでした。ですが、身分制度は廃止されたのに、部落差別などのかたちで差別はその後も残りました。
※5
「浅い日本人」(『内村鑑三全集』28巻、岩波書店 200頁)