だから気をつけてほしいのは、教育勅語の前に立った内村さんが、自分は天皇なんて偉いと思ってないよ、とアピールするために行動したわけではなかったということです。
天皇本人は会場にいませんでした。天皇自身が文字を書き込んだわけでもない紙きれに、みんな深々と頭を下げているのです。どうしてみんな、何も考えずに言われたとおりにしているのだろう。これってなんかヘンじゃない?……。内村さんはそう感じ、嫌な気持になったのでしょうね。それが、少し頭を下げるという中途半端な行動となってあらわれたのではないでしょうか。
これが「不敬」だということですぐに大騒ぎになったのです。「不敬」というのは、天皇にたいする敬意がなくてたいへん失礼だ、ということですね。
まず先生や生徒たちが内村さんの行動を問題視し、新聞で報道されて大ニュースになりました。毎日たくさんの人が内村さんの家に押し寄せてきて、内村さんを問い詰めました。頭の下げ方が良くなかったという理由で、まるで極悪非道の犯罪者かのように責め立てられたのです。一対一で話せばわかってくれる人も、集団になるとまったく聞く耳を持ちませんでした。しばらくして内村さんは病気にかかり、寝込んでしまいます。そんな状態でほとんど強制的に先生の仕事を辞めさせられた上に、妻のかずさんも病気になり、死んでしまいます。
内村さんは、この経験によって、怒りには二つのタイプがあることを知りました。一つは、騒々しくて、浅くて、短い怒り。もう一つは、静かで、深くて、長続きする怒り。この時内村さんを襲ったのは、第一のタイプの怒りでした。それは一瞬ではげしく燃え上がりますが、別の事件や出来事が起こればすぐに忘れられます。そのため、じっくり考えながら物事を変えていくためには、全然役に立ちません。内村さんは後に「浅い日本人」という文章で、こんなことを言っています。日本人は深く静かに怒ることができない。彼らは、長く深い怒りが、神のような正しい感情であることをわかっていないのだ、と。※5
わたしはこんなふうに思います。
〝みんな同じ〟の〝平等〟を目指すことは大事です。でもそれを実現するためのエネルギーが第一のタイプの怒りだけだったら、どうなるでしょうか。〝平等〟を目指していたつもりが、〝みんな〟に入らない人や、〝同じ〟からズレている人を憎み、集団で襲いかかる。そんな良くない行動に変化してしまうかもしれません。
個人の〝自由〟をないがしろにしない〝平等〟。他人の話をよく聞いたり、個人個人の思いや事情を深く理解した上で実現される〝平等〟。そのために必要なエネルギーは、静かで、深い、長い怒りなんだ。内村さんはそう気づいたのです。集団的なノリや盛り上がりの中にではなく、一人の人間の心の中に宿る、静かな怒りです。そのような怒りが集まれば、味方や仲間ではない他人とも共鳴し合い、協力し合いながら、〝平等〟を実現することができるかもしれない。良い方向に社会を変えられるかもしれない。事件を経て、内村さんはそのような〝平等〟を思い描くようになりました。
次回は、その後の具体的な足取りを、一緒に追いかけてみましょう。
※1
選挙の場合を考えてみます。ある人は政治について学び、情報を集めた上で、投票することができます。でも、べつの人は、学んだり情報を集めたりする時間やお金の余裕がどうしてもなくて、不十分な知識や情報しかない状態で投票するしかありません。この二人の一票は、ほんとうの意味で〝平等〟だと言えるでしょうか。投票にいたる過程まで〝平等〟になる工夫をして、やっとそれぞれの一票が〝平等〟になるのではないかと、わたしは考えます。
※2
ここまで〝平等〟について考えたことは、齋藤純一さんの『不平等を考える――政治理論入門』(ちくま新書)や、アマルティア・センさんの『不平等の再検討――潜在能力と自由』(岩波現代文庫)といった本を参考にしています。よければ読んでみてください。
※3
「大日本帝国」と書いたのは、当時の日本と、第二次世界大戦後の日本では、自分の国を呼ぶ呼び方(国号)が違うからです。当時はこのように呼びました。
また、教育勅語の文章はウィキペディアでも読むことができます。むずかしい言葉が使われていますが、中身はぼんやりしていて、はっきりした意味は読み取りづらいです。でもだからこそ、天皇と国家にたいする国民の忠誠心を持続させるための便利なツールとして、その都度色々な意味が盛り込まれて活用されました。とくに第二次世界大戦中がそうでした。
※4
キリスト教も、差別からの解放を求める人々のよりどころの一つでした。ですが、身分制度は廃止されたのに、部落差別などのかたちで差別はその後も残りました。
※5
「浅い日本人」(『内村鑑三全集』28巻、岩波書店 200頁)