事件の後、テレビや新聞にあふれていたことばが、わたしはイヤでたまりませんでした。自分自身で真剣に考えたことばが、全然なかったからです。多かったのが、〈安倍晋三がどんなに悪いことをしたとしても、直接攻撃するのは絶対によくない〉という意見。ほんとうにそうでしょうか。なぜそう考えるのでしょうか。政治家を直接攻撃するのは、ひとびとが選挙をつうじて自分の意見を表明し、物事をかえていく「民主主義」をこわすことになるからでしょうか。では、その「民主主義」という仕組みをうまく使って悪いことをする政治家があらわれた場合は、どうすればいいのでしょう。これはとても難しい問題ですね。しかし、そういうところまで考えたうえ での意見は、見当たりませんでした。
宗教についても、そうです。宗教の話題は出来るだけ避けるか、「統一教会」ってこんな困った組織なんだよと面白おかしく伝えるか、そのどちらかばかり。わたしが小さい頃、オウム真理教というグループが事件を起こした時も、同じような感じだったんですよ。なぜ神を信じる人たちがいるのか。どんな人が宗教を必要としているのか。そもそも神って、宗教ってなんなのか。すごく気になりましたが、わたしの周りにいた〝おとな〟はあまり考えたくなさそうでした。 それはよくないことだな、と思います。
山上徹也は、自分なりによく考えて、あんなことをしたのではないか。わたしは徐々にそう考えるようになりました。山上には〈個〉としてのことばがあるのではないかと思ったんですよね。彼がSNSに書き込んだ文章を読むとわかりますが、どうして自分の人生がこんなふうに辛くなったのか、そこにはどんな理由が絡み合っているのかを、探しているんですね。彼の問いは、少しずつ深くなっていった。その先に事件があった。そんな気がしたのです。
わたしがとくにそう感じたのは、山上がTwitter(現在はXです)というSNSに書き込んだ、こんなことばでした。「だがオレは拒否する。『誰かを恨むでも攻撃するでもなく』それが正しいのは誰も悪くない場合だ。明確な意思(99%悪意と見なしてよい)をもって私を弱者に追いやり、その上前で今もふんぞり返る奴がいる。私が神の前に立つなら、尚の事そいつを生かしてはおけない」(※)
自分の不幸の理由をよく考えてみて、誰も悪くないとわかれば、他人を恨まないようにする。でも、誰かの悪意の結果なら、自分は怒り、たたかうんだ。それが正義なんだ。そういう決意を書いているんですね。殺さないことよりも、殺すことのほうが大事な場合があるはずだ、と考えたのです。しかも、「私が神の前に立つなら」って言うのです。どういうことでしょう。なぜ、正義について真剣に考えて、いきなり神という言葉が出て来たのでしょうか。山上は、神の存在を信じる宗教に、嫌な思いをさせられたはずなのに。
みなさんのごく当たり前の暮しや悩みについてゆっくりと考えていくうちに、そんな難しいことも〝わかる〟といいな、と思っています。
ではみなさん、さようなら。
(※)
「だがオレは拒否する」というのは、杉田俊介という批評家がインターネットの記事で書いた、「弱者男性」と呼ばれるような人間でも、誰かを恨んだり攻撃したりせずに生きていけるんじゃないか、それが未来の人々の希望や勇気になるんじゃないか、という意見を受けてのものです。つまり山上は、杉田俊介の言っていることもわかるけれど、でも自分はその意見を受け入れられないと言って、その理由を書いているんですね。
山上徹也がSNSに書き込んだことばについては、五野井郁夫と池田香代子が書いた『山上徹也と日本の「失われた30年」』(集英社インターナショナル)という本でくわしく紹介されています。よければ参考にしてください。また、「弱者男性」は、人によって様々な捉え方がある概念です。気になる方は杉田俊介の『男がつらい!――資本主義社会の「弱者男性」論』(ワニブックス)などを読んでみてください。