あなたという〈個〉がこの世界に生きていて、同じ世界にあなたとはちがう誰かが〈個〉として生きている。出会うこともあれば、出会わないこともある。たまたま協力し合えることもあれば、協力出来ないこともある。そんな出来事の積み重ねのなかで、ゆっくりと、自分の考えが形づくられていく。生きていくことは、それだけで十分なはずなのです。
さて、わたしは、少なく、ゆっくりと考える時間を、みなさんと共有したいと願っています。知識を伝えるのではなく、それぞれ異なる〈個〉が共に学び合う経験を、みなさんと分かち合いたいのです。その理由がわかってもらえたでしょうか。
〝考える〟ことは不思議で楽しいことだ
次回以降のために、具体的な話もしていきましょう。
わたしはこの連載を、内村鑑三という人の生き方やことばを参考にしながら進めていくつもりです。内村鑑三は江戸時代の終わり頃(1861年 万延2年)から、昭和という時代のはじめ頃(1930年 昭和5年)まで生きた人です。歴史の授業で名前を聞いたことがあるかもしれません。彼が有名なのは、熱心なキリスト教徒として様々な活動をし、およそ百年もたった今読んでも面白い本を書き遺(のこ)したからですね。
キリスト教には、『聖書』という本があります。キリスト教徒は『聖書』を大事にし、そこに書かれている神を信じています。みなさんは疑問に思うかもしれませんね。ついさっき、自分で考えることが大切だと言ったばかりじゃないか。本に書かれたことを信じ、目に見えない神なんてものを信じるのは、自分で考えることと正反対じゃないのか、って。
とても鋭い指摘です! 少し、遠回りさせてください。
一生懸命なにかを考えるのが楽しいのは、わからなかったことが〝わかる〟ようになるからです。ためしに〝わかる〟の、漢字を思いうかべてみましょう。「分」「別」「解」……。〝わかる〟っていうのはつまり、かたまりをばらばらにし、くらべて、それぞれの違いをはっきりさせることなのですね。そうすることで、細かくものが見えるようになる。それが〝わかる〟ことです。この説明だと、冷たくて、さみしい感じがありますね。じっさい、〝わかる〟ことと「別」れることには、深い結びつきがありそうです。「別」れたからこそ、そのひとやそのものの本質がよく理解される。そんなことがときどき起こります。
でも、それだけではないと思います。たとえば、小さな子どもが、ことばと世界の関係を〝わかる〟場面を観察すると、生き生きしていてとても楽しそうです。花の名前をあたらしく覚えた子どもが、散歩中にその花に出会うと、目を輝かせて指さし、覚えたての名前を呼びます。幸せそうに、一度ではなく何度も繰り返します。なにがそれほど嬉しいのでしょう。
指さし、名前を呼ぶことは、目の前の風景からその花を切り「分」けることです。その子は、こう感じていたのではないでしょうか。魔法を使うみたいに、自分がこの花に命を「分」け与えたんだ。だから、これまでは風景のなかにぼんやり溶け込んでいた花が、ぐっと鮮やかに輝いたんだ、って。もちろん、この瞬間、輝いているのは花だけではありませんね。子どもの命も、つよく輝いています。おたがいが、輝きを分け合っているように思えます。
ちょっと大げさかもしれませんが、〝わかる〟っていうのは、こんなふうに命の輝きを「分」かち合い、「分」け与え合う経験のことだと思うんです。それぞれが「分」かれ、「別」れながら、それでもたしかに、この世界のなかで結ばれ合い、たがいに命を分け合っている。そのことを喜び合うのです。日々の勉強に追われて大変なみなさんには、とても呑気な話だと思われるでしょう。それでも、みなさんの考えることの根っこに、いつも、こういう〝わかる〟喜びがあってほしいし、あるにちがいないと、わたしは信じています。
わたしは、本を読んで考えることが好きです。深く考えながら生きた他人の人生とことばに触れて、その他人と共に考えている時に、〈個〉としての自分をはっきりと感じることが出来るからです。そしてそれは、他人の人生とことばを輝かせ、他人を〈個〉として強く感じ取ることでもあるのだと思います。子どもが、花の名前を 呼んで、その花を輝かせるみたいに。だから、たとえば内村鑑三の本を読んで、彼の人生やことばについてなにかが〝わかる〟ことって、内村鑑三からなにかを与えられるだけではないんですね。こちらからも内村鑑三になにかを与えることになるのです。
こんなふうに、考えることって、〝わかる〟ことを他人と共有する不思議な、楽しい経験なのです。
さて、『聖書』という本は、様々な時代の人たちが、神について書いたたくさんのことばを集めたものなんですよね。その人たちはみんな、神を見たわけではないけれども、心で神を感じたのだと、内村は言っています。それだから、内村はこう考えるのです。『聖書』はとても大切なんだけれど、あくまでも人間が書いたものだから、ただ崇拝して満足してはいけない。『聖書』は、ちゃんと利用してこそ意味があるんだ、って(内村の『宗教座談』という本の、「第三回 聖書の事」を参照しています)。
『聖書』を利用するって、どういうことでしょう。内村はよく「実験」という言葉を使って説明しています。本で読んだり、話で聞くだけではなく、自分でじっさいに経験してみる、ということですね。知識として神を知るのではなくて、まず神を「実験」する。つまり、神を信じ、神を感じながら、生きてみる。その「実験」の後から『聖書』を読めば、色々な事柄が確かめられて、納得してまた新しい「実験」を行える。そういうことのようです。
どうでしょう。これって、本を読んで考えることがただ単に知識を得ることではないのと、つながっている気がしませんか。『聖書』は、ゆっくり考えながら生きていく自分と、神との分かち合いの場所であり、神と共に生きようとしたたくさんの人たちとの分かち合いの場所なのだ。内村は、そんなふうに言いたいのではないでしょうか。
いや、それでも、神のようなよくわからないものを先に信じろなんて言う人が、自分自身で考えることを大切にしているはずがない、とみなさんは思うかもしれません。これは貴重な疑問ですので、この先もずっと忘れないようにするつもりです。
宗教って何だろう?
わたしが、みなさんと一緒に神や宗教について考えてみたいと思った直接の理由は、2022年7月に発生した、安倍晋三元首相の銃撃事件なんです。覚えていらっしゃいますか。山上徹也という人が、演説をしていた安倍晋三を手づくりの銃で殺した事件ですね。山上徹也は、自分のお母さんが「統一教会」(現在は「世界平和統一家庭連合」と名前がかわっています)という宗教組織に入ったせいで自分の人生がめちゃくちゃにされてしまったと考え、「統一教会」を恨んでいました。「統一教会」は朝鮮で生まれた宗教で、信者の人たちは、キリスト教の『聖書』を大きくアレンジした教えを信仰しています。朝鮮でキリスト教や、キリスト教をアレンジした宗教が盛んなのには、日本が朝鮮を侵略し、朝鮮の人々を虐げてきた長い歴史が関係しています。そして、山上が安倍を狙ったのは、「統一教会」が日本に進出するきっかけを作った岸信介という昔の政治家(この人も首相でした)の孫である安倍が、「統一教会」をサポートしていると考えたからです。このような山上の観察は正しかったと、わたしは思います。
(※)
「だがオレは拒否する」というのは、杉田俊介という批評家がインターネットの記事で書いた、「弱者男性」と呼ばれるような人間でも、誰かを恨んだり攻撃したりせずに生きていけるんじゃないか、それが未来の人々の希望や勇気になるんじゃないか、という意見を受けてのものです。つまり山上は、杉田俊介の言っていることもわかるけれど、でも自分はその意見を受け入れられないと言って、その理由を書いているんですね。
山上徹也がSNSに書き込んだことばについては、五野井郁夫と池田香代子が書いた『山上徹也と日本の「失われた30年」』(集英社インターナショナル)という本でくわしく紹介されています。よければ参考にしてください。また、「弱者男性」は、人によって様々な捉え方がある概念です。気になる方は杉田俊介の『男がつらい!――資本主義社会の「弱者男性」論』(ワニブックス)などを読んでみてください。