つまり、〝絶望〟って、わたしがわたしであることの、意味や理由を問うことなのだと思います。そこに意味や理由なんてないのに。どれだけ考えてもわかるはずないのに。だから苦しくて、辛いのだと思います。
これは、すごく人間らしい弱さだと、思います。
科学技術が発達したおかげで、わたしたちは、昔の人にはわからなかった出来事の原因や意味を理解できます。あらかじめ予測できる災害や事件、予防できる病気も増えました。でも、人間がいくらかしこくなっても、わたしがわたしであることへのギモンは解けません。でも、ギモンを持つことをどうしてもやめられないのです。だから、さまざまな出来事が偶然に起こり続けるかぎり、そしてわたしたちが、それぞれ一人一人のわたしであるかぎり、この世界から〝絶望〟はなくならないのですね。
ところで、子ども時代のわたしは、もう一つギモンを持っていました。それは、どうしてこんなに困っているのに、父は助けてくれないんだろう?というものです。成長するにつれて、父はただの他人なのだから期待してもムダだという、さめた気持ちも出てきました。それなのに、心のどこかで父にこだわっていたのは、子どもながらに、〝神様〟みたいなものへの小さな希望を持っていたからだと思います。わたしの苦しみの意味や理由をわかっていて、すべての責任を取れる存在が、どこかにきっといるはずだ。そうじゃなきゃおかしい!って。
これも、死んでも死なないを考えるのと同じで、手に入らないものを欲しがるという、人間の特徴のあらわれかもしれませんね。
みなさんは、そんなの思い込みだ、ってツッコみたくなりましたか? その気持ちわかるかも、って思いましたか? そのときのわたしは不安で、おびえていました。けれども、そうじゃなきゃおかしい!という思いにだけは、強いなにかを感じました。そのことを、よく覚えています。
内村鑑三なら、こう言うでしょう。そのとき、あなたの〝絶望〟のそばに、神がいたんだよ、って。内村さんはよく、こんなたとえを使って、このことを説明しました。もともと光があったから、光をキャッチする目が発達したんだ。目があったから光ができたんじゃないよね。それと同じで、人間の限界を超えたなにかが存在するから、その存在をキャッチする心が発達したんだよって。〝絶望〟はそういう心が育つための、大切なチャンスなんだ、というわけですね。
〝絶望〟しても仕方ない。考えてもわからないことは、考えないほうがいい。
〝絶望〟はチャンスだ。考えてもわからないことだからこそ、真剣に考えたほうがいい。
どちらが正解でしょうか。答えは、簡単には出ない気がします。ですが、内村さんの生き方全体をふり返ると、〝絶望〟はムダではないな、と思えます。内村さんの人生が、〝絶望〟をきっかけに深く、大きくなったことは、たしかだからです。
すみません、寄り道のつもりが、長いまわり道になってしまいました。次回は、世界一有名な〝絶望〟の本、『旧約聖書』のなかの「ヨブ記」を取り上げて、この〝絶望〟の話をまとめましょう。それでは、さようなら。
※1
「人間が書いた文章、歴史社会の制約の中で、また自分個人の制約と欠点もかかえて生きている、その人間が書いた文章が、「聖書」、つまり超越的神的に絶対的な書物、一言一句いかなる欠点もなく、崇高で超越的な神の言葉なんぞであるわけがない。人間が書いたものは、あくまでも人間の歴史の記録である」田川建三『新約聖書 本文の訳』作品社 p.3
※2
森有正『内村鑑三』講談社学術文庫 p.63~64
※3
内村鑑三『代表的日本人』鈴木範久訳、岩波文庫 p.141